*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第10回
俺が松の木の姿を目の当たりにしているとき、俺の前方数十メートルの場所に実在している、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」から、「ほんとうの松の木」についての情報が、神経、脳をへて、俺の心にまで伝達されていると科学は考え、 眼球、神経、脳へと至るその神経経路を伝導する電気的興奮(これは事実)を、「ほんとうの松の木」についての情報を伝達しているものと説きますが、そうした電気的興奮の伝導は、電気的興奮の伝導以外の何ものでもなく、「ほんとうの松の木」についての情報を伝達してはいないと申しました。
では、眼球からはじまり脳に至るその神経経路は、情報を伝達していないのなら、電気的興奮を伝導することでいったい何をしているのでしょうか。
眼球からはじまり脳に至る神経経路は、そのように電気的興奮を伝導することで、前方数十メートルの場所にある松の木と、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合っていると言えます (このとき「共にどのように在るか」というこの問いに一瞬ごとに答え合っているのは、chapter1で見ましたように、これらふたつには限られませんが、ここでは事を簡単に見るためこのふたつに話をしぼります)。
俺が木目までくっきりとした、ある大きさの松の木の姿を目の当たりにしているとしますと、そのとき、「共にどのように在るか」というひとつの問いに、眼球から脳に至るその神経経路は電気的興奮の伝導をもって答えているいっぽう、俺の目の前数十メートルの場所にある松の木のほうは、木目までくっきりとした姿をとることをもって答えているというわけです。
「身体の物的部分」各所の受容体からはじまり、神経をへて、脳に至る神経経路を伝導する電気的興奮についてもこれと同じことが言えます。
科学は、「ほんとうの身体の物的部分」各所の受容体から、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報が、神経、脳をへて、俺の心のなかへ伝達されるとし、「身体の物的部分」各所からはじまって脳へ至るこの神経経路を伝導する電気的興奮(これは事実)を、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報の伝達とします。が、そうした電気的興奮の伝導は、電気的興奮の伝導以外の何ものでもなく、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報を伝達などしてはいないと先に申しました。
では、「身体の物的部分」各所からはじまり脳に至るその神経経路は、情報伝達をしているのでなければ、電気的興奮を伝導することでいったい何をしているのでしょうか。
「身体の物的部分」各所からはじまり脳に至る神経経路は、そのように電気的興奮を伝導することで、「身体の感覚部分」と、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合っていると言えます (先ほども書きましたように、「共にどのように在るか」というこの問いに一瞬ごとに答え合っているのはこれらふたつには限られませんが、ここでも事を簡単に見るためこのふたつに話をしぼります)。
くり返し確認しておりますように、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とは、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合う、身体のうちの二部分です。「身体の物的部分」各所の受容体からはじまり脳に至るその神経経路と、「身体の感覚部分」とは、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合います。
たとえば俺が足のしびれを感じているとき、「共にどのように在るか」というひとつの問いに、「身体の物的部分」各所からはじまり脳に至るその神経経路はある電気的興奮の伝導をもって答えているいっぽう、「身体の感覚部分」のほうは、足のしびれを呈することをもって答えているというわけです。
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