(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

そこで心を想定するという手を打ちました

*心はいかにして科学から生まれたか第4回


 科学は、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士を、それぞれがそのとき在る場所に在るのは認めるものの、事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにし*1、一転、世界絵を存在していないことにするこの「絵の存在否定」という不適切な操作をみずからの出発点とする。「科学の身体研究からすっぽりぬけ落ちている大事なもの」のchapter2では、科学が事のはじめにこうした操作を為し、存在と身体を実際とは別のものにすり替えるのを見た。


 科学が存在を実際とは別のものにすり替えるその経緯(外界知覚論)はこうだった。


 いまこの瞬間、私が松の木を目の当たりにしているとすれば、松の木のその姿と、その瞬間の私の「身体の感覚部分」とは、「ひとつの世界絵に共に参加している」と言える。が、科学は、それらふたつを、それぞれがその瞬間に在る場所に在るのは認めるものの、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士であるとは認めない。事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士とする。すると、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、松の木と、私の「身体の感覚部分」とをどう足し合わせても、その瞬間、私が松の木の姿を目の当たりにしているという世界絵は出てこなくなる。その瞬間、私には松の木が見えていないことになる


 とはいえ、その瞬間たしかに私は松の木の姿を目の当たりにしている。そこで科学は、私には松の木が見えていないということにするために、現に私が目の当たりにしているその松の木の姿を、私の前方数十メートルのところにあるものではないことにする。代わりにその場所には、見ることも触れることもできないほんとうの松の木」があることにする。


 けれどもそうすると、現に私が目の当たりにしている松の木の姿が行き場(正確には、在り場?)を失う。それは、前方数十メートルのところにあるのでないなら、いったいどこにあると考えればよいのか。


 ここで科学は、ありもしない心という存在を想定する。そして、私が現に目の当たりにしている松の木の姿を、その心のなかにある映像であることにする。


 で、こう考える。


 私の心の外には、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」が実在していて、それから、それの情報が光にのって私の眼球まで飛んでくる。その情報はそこで電気信号のかたちに変換され、以後、視神経をとおって脳まで伝達されるが、最後にこの脳で電気信号のかたちから映像へと変換され、私の心に手渡される。そうして私の心のなかに出来上がった映像こそ、現に私が目の当たりにしている松の木の姿なのだ、と。


 科学は、現に私が目の当たりにしている松の木の姿を、私の心のなかの映像であることにし、このように、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」(私の心の外に実在)についての情報とするわけである。


 心が生まれ来たった経緯は以上のとおりである。

つづく


前回(第3回)の記事はこちら。


このシリーズ(全6回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年7月31日現在なら、「ひとつの世界絵に共に参加している」のところは、「体験に共に参加している」と書くでしょう。この文章、以下同様です。