(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学の奇っ怪な出発点は「部分」の否認にあり②

 ではつぎに、これらふたつの不適切な操作の過程を順に詳しく見ていこう。


 いまこの瞬間、俺が、教会の塔のうえにある鐘を遠望しているとすれば、その瞬間、俺が目の当たりにしている鐘の姿は、俺の前方数百メートルのところにあるということになる。このように、俺が前方数百メートルのところにある鐘の姿を目の当たりにしているというのは、言ってみれば、たがいに数百メートル離れたところにある、鐘の姿と、俺の身体とが、そのとき、俺のしている体験(鐘を見ているという体験)に共に参加している*1ということである。


 しかし科学は、俺がその瞬間、鐘を見ているというこのことについて、つぎのふたつの論理操作をなす。

  • ⅰ.そのとき、鐘と俺の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)
  • ⅱ.ただしそれらふたつが、「俺のしている体験に共に参加している」のは認めない。すなわち、それらふたつを、「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士であると考える*2(部分であることの否認)。


 すると、どうなるか。


 その瞬間、「鐘を見ているという俺の体験」は存在していないことになって、鐘はそのとき俺に見えていないことになる。たがいに数百メートル離れたところに、見えていない鐘と俺の身体とがただバラバラにあるだけということになる。


 けれども、現にその瞬間、俺は数百メートル先のところにある鐘の姿を目の当たりにしている。


 そこで科学は、その瞬間、俺に鐘が見えていないということにするため、心とか意識とかコギトとかと呼ばれるけったいなものをもち出してくる。そして、俺が現にその瞬間に目の当たりにしている鐘の姿を、俺の前方数百メートルのところにあるものでなく、俺の心(現代科学の考えでは脳)のなかにある映像にすぎないことにする。で、俺の前方数百メートルの場所(心の外)にほんとうに実在しているのは、見ることのできない鐘であるということにする。


 これが、「絵の存在否定」と俺が呼ぶ不適切な論理操作のあらましである*3


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:05


ひとつまえの記事(①)はこちら。


このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:ただしシリーズ第1弾と第2弾では、単純にこういったふうに表現した。たがいに離れた場所にある、鐘の姿と、俺の身体と、そのとき共に、鐘を見ているという俺の体験の部分である

*2:おなじくここもシリーズ第1弾と第2弾ではこういったふうに表現した。鐘と俺の身体のどちらをも、「鐘を見ているという俺の体験の部分」とは認めない

*3:2018年7月5日と同年11月4日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。