ではつぎに、これらふたつの不適切な操作の過程を順に詳しく見ていこう。
いまこの瞬間、俺が、教会の塔のうえにある鐘を遠望しているとすれば、その瞬間、俺が目の当たりにしている鐘の姿は、俺の前方数百メートルのところにあるということになる。このように、俺が前方数百メートルのところにある鐘の姿を目の当たりにしているというのは、言ってみれば、たがいに数百メートル離れたところにある、鐘の姿と、俺の身体とが、そのとき、俺のしている体験(鐘を見ているという体験)に共に参加している*1ということである。
しかし科学は、俺がその瞬間、鐘を見ているというこのことについて、つぎのふたつの論理操作をなす。
- ⅰ.そのとき、鐘と俺の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
- ⅱ.ただしそれらふたつが、「俺のしている体験に共に参加している」のは認めない。すなわち、それらふたつを、「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士であると考える*2(部分であることの否認)。
すると、どうなるか。
その瞬間、「鐘を見ているという俺の体験」は存在していないことになって、鐘はそのとき俺に見えていないことになる。たがいに数百メートル離れたところに、見えていない鐘と俺の身体とがただバラバラにあるだけということになる。
けれども、現にその瞬間、俺は数百メートル先のところにある鐘の姿を目の当たりにしている。
そこで科学は、その瞬間、俺に鐘が見えていないということにするため、心とか意識とかコギトとかと呼ばれるけったいなものをもち出してくる。そして、俺が現にその瞬間に目の当たりにしている鐘の姿を、俺の前方数百メートルのところにあるものでなく、俺の心(現代科学の考えでは脳)のなかにある映像にすぎないことにする。で、俺の前方数百メートルの場所(心の外)にほんとうに実在しているのは、見ることのできない鐘であるということにする。
これが、「絵の存在否定」と俺が呼ぶ不適切な論理操作のあらましである*3。
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