*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.49
◆「絵の存在否定」はすべてを心のなかの像に変える
科学はこの「絵の存在否定」を事のはじめに、ありとあらゆるものすべてに為します。どんなふうに為すか、今から電柱を例に確認していきます。
俺がいま窓外に、電柱を見ていると想像してみてくれますか。
俺がいま現に目の当たりにしている電柱の姿は、俺の前方数十メートルのところにあります。そのように俺が、前方数十メートルのところにある電柱の姿を目の当たりにしているということについても、先ほど同様、ちょっとおかしな表現になるかもしれませんけど、こう言うことができますね。
互いに数十メートル離れたところにある、その「電柱の姿」と「俺の身体」とは、俺のしている(電柱を目の当たりにしているという)体験に共に参加している、って。
ところが、ですよ。
科学は、それら電柱と俺の身体とが、現に在る場所にそれぞれ位置を占めているのは認めるものの、互いに数十メートル離れたところにあるそれらふたつを「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士と考えます。
- ①電柱と俺の身体とが、現に在る場所にそれぞれ位置を占めているのは認める(位置の承認)。
- ②互いに数十メートル離れたところにある、それらふたつを、「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士と考える(部分であることの否定)。
すると、どうなるか。
さっきの犬という漢字の場合とおなじことが起こります。
俺が、数十メートル離れたところにある電柱の姿を目の当たりにしているという体験が、忽然と、存在していないことになります。
つまり、俺の数十メートル先に電柱はあるが、その電柱は俺には見えていないということになります。その電柱は見えないものであることになります。
けど、いくらそうは言っても、現に俺はその電柱の姿を目の当たりにしていますよね?
そこで科学は、その電柱を見えていないことにするために、心とか意識とかコギト(思惟)とか精神とか、いろんな名前で呼ばれてきた非物質的存在をもち出してきます(もちろんそんなものはこの世に存在しませんが)。で、現に俺が目の当たりにしている電柱の姿を、俺の前方数十メートルのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像にすぎないことにします。
そうして、俺の前方数メートル先にある電柱を、見えないものであることにするわけです。
*今回の最初の記事(1/7)はこちら。
*前回の短編(短編NO.48)はこちら。
*これのpart.1はこちら(今回はpart.3)。
*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。