(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学は存在を別ものにすり替える

*科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第11回


 いまこういうことを確認しました。


 眼球から脳に至る神経経路に起こる電気的興奮の連鎖は、俺の眼前数十メートルの場所に実在する「ほんとうの松の木」についての情報を眼球から脳に伝達しているのではありませんでした。眼球から脳に至るその神経経路は、俺の目のまえにある松の木などと、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合います。「共にどのように在るか」というひとつの問いに、前者の神経経路が、電気的興奮の伝導を呈することをもって答えるいっぽう、後者の松の木が、現に俺が目の当たりにする姿を呈することをもって答えるということでした。


「身体の物的部分」各所の受容体から神経をへて脳に至る神経経路に起こる電気的興奮の連鎖もまた、「ほんとうの身体の物的部分」についての情報を脳へ伝達しているのではありませんでした。「身体の物的部分」各所の受容体から脳に至るその神経経路も、「身体の感覚部分」などと、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合います。「共にどのように在るか」というひとつの問いに、前者の神経経路が、電気的興奮の伝導を呈することをもって答えるいっぽう、「身体の感覚部分」が、あるしかじかの感じを呈することをもって答えるということでした。


 しかし科学には神経経路に起こる電気的興奮の伝導をこのように見ることは絶対にできません。


 なぜそんなに強い調子で断定できるのか。


 俺が松の木の姿を目の当たりにしている例を用いてここまで考えてきました。見てきましたように、科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為し、現に俺が目の当たりにしている松の木の姿を、俺の前方数十メートルのところにあるものではなく、俺の心のなかの映像であることにし、代わりに俺の前方数十メートルのその場所には、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」が実在しているとします。


 そのように実際の松の木と、科学が松の木と考えるものとは異なります。


 実際の松の木は、俺が現に目の当たりにしている松の木の姿であって、それは俺の前方数十メートルのところにあります。いっぽう科学が俺の前方数十メートルの場所に実在している松の木とするものは、見ることも触れることもできない何か(分子の組み合わさったもの)です。


 前者、俺が現に目の当たりにしている松の木のほうは、俺が近寄っていくにつれ、刻一刻とその姿を大きくし、木目をくっきりさせていきます(chapter1でこのことを確認しました)。すなわち、俺が目の当たりにする松の木のほうは、「他と共にどのように在るか」という問いに一瞬ごとに答えるものです。が、後者の、科学が俺の前方数十メートルの場所に実在していると考える、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」のほうは、「他と共にどのように在るか」という問いに答えることのないものです。すなわち、俺が近寄っていこうが遠ざかろうが、はたまた片目をつむろうが、サングラスをかけて見ようが、逆立ちしようが、晴れていようが、曇っていようが、そんなことではなんら変化しないもの、別の言いかたをすれば、客観的なものです。


 科学は、この松の木のように、存在(音、匂い、味、を含む)という存在をすべて、「他と共にどのように在るか」という問いに答えることのないもの(いわゆる客観的なもの)にすり替えます。


 いま申しましたとおり、俺が松の木に近寄っているあいだ(だけには限られませんが)、俺が目の当たりにする松の木の姿は「他と共にどのように在るか」という問いに一瞬ごとに答えますが、このときたとえば俺の身体も「他と共にどのように在るか」という問いに一瞬ごとに答えます。要するにその間、松の木の姿や、俺の身体(とうぜん神経経路を含む)などは、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合います。ところが科学は、俺がそうして歩み寄っているあいだ、「ほんとうの松の木」が「他と共にどのように在るか」という問いに答えることもなければ、俺の身体(とうぜん神経経路を含む)が「他と共にどのように在るか」という問いに答えることもないとします。つまりその間、「ほんとうの松の木」や、俺の身体(とうぜん神経経路を含む)が、「共にどのように在るか」というひとつの問いに答え合うことはないとします。


 したがって、眼球から脳に至る神経経路「身体の物的部分」各所の受容体から脳に至る神経経路に電気的興奮の伝導が起こるのは、それら神経経路が、俺の目のまえにある松の木や「身体の感覚部分」などと、「共にどのように在るか」というひとつの問いに一瞬ごとに答え合っているということであると科学が認めるはずはないと強く断言できるというわけです。

つづく


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