*科学するほど人間理解から遠ざかる第10回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである*1と俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところから、みなさんと一緒にたどることにしました。
で、物を見るということについて確認しなおすべく、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想定いただきながら、まずつぎのふたつを確認することにしました。
- その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿
- その瞬間の俺の身体
ちょうど先ほど、前記1の確認を終えました。こういうことでした。その瞬間、大木は、俺のほうを向いた面の上ッ面のみ「見えるありよう」を呈し、それ以外の部分はすべて「見えないありよう」を呈しているといった姿で、俺の前方数十メートルのところに存在している。
引きつづき、前記2「その瞬間の俺の身体」について確認します。
その瞬間、頭のてっぺんから足の先までひと連なりになっている俺の身体感覚があるのとおなじ場所には、もうひとつ別のものがあります。それは何だとみなさんお考えになりますか。
それは、見ようとすれば見ることができ、触れようとすれば触れることのできるものだと言えるでしょうか。
そうです、みなさんが、物、とおよびになるものです。
俺の頭のてっぺんから足の先まで、感覚と物というふたつの別もの同士が、お互いおなじ場所を占めているわけです。
前者の感覚はいまも申しましたようにひろく世間では身体感覚とよばれていますが、ここでは以後、身体の感覚部分とよぶことにします。後者の物のほうを身体の物部分とよばせていただくのに合わせて。
前方数十メートルのところにある大木の姿を目の当たりにしているこの瞬間、俺の「身体の物部分」は俺自身にたいして、まるまる全部が「見えないありよう」を呈した姿をとっています。そして、俺の「身体の感覚部分」があるのとおなじ場所を占めています。もしその瞬間に俺が、数日まえに噛まれた右手の小指を見ていれば、俺の「身体の物部分」はそのとき、右手のあたりの、俺のほうを向いた面の上ッ面のみ「見えるありよう」、それ以外のところはすべて「見えないありよう」といった姿をとっていたでしょうけれども(噛んだのはネコであるという情報は入り用でしょうか)。
俺が長らくみなさんを密かに、かつネチっこく観察してきて(キモいですね......)思うに、みなさんにとって身体とはこのように、おなじ場所を占めている「身体の物部分」と「身体の感覚部分」とを合わせたもののことです。
以上、大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想定いただきながら、前記2「その瞬間の俺の身体」についても確認し終えました。
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