*科学するほど人間理解から遠ざかる第17回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点からたどっています。
俺が並木道を大木めざし歩いているといった場面をここまでみなさんにご想像いただいてきました。そうして歩いているあいだ(だけには限られませんが)、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、音、俺の「過去体験記憶」、俺の「未来体験予想」等が、「応答し合いながら共に在る」のをご確認いただきました。
では最後に、それら大木等が「応答し合いながら共に在る」というこのことが何を意味しているのか、見ていきます。
みなさん、覚えていらっしゃるでしょうか。快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると冒頭で補足確認するとき、いきなりみなさんにこうお尋ねしました。
ご自身の、いまこの瞬間もくしは過去の任意の一瞬の状態をご教示くださいと俺がお願いしますと、みなさんどうお答えくださいますか、と*1。
おそらくみなさんどなたもそのぶしつけなお願いに、会話中であるとか食事中だったといったように、「〜中」といった言い方をもちいてお答えくださるか、さもなくば、会話をしているとか食事をしていたといったように、「〜している/していた」といった文末表現をもちいてお答えくださるのではないか、とのことでした。
このように「〜中」とか「〜している/していた」といった表現をもちいてお答えくださるというのは、生きておられるうちのどの瞬間をとってもみなさんは、出来事の最中におられるということであって、言ってみれば、みなさんは生きておられるあいだ、どの瞬間でも、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに身をもってお答えであるということだ(言い換えれば、身をもって「今」を出来事の最中としておいでであるということだ)とそのさい申し上げました(「今」というひと言で「今という一瞬」を表現しています)。
過去をふり返ることによっていま重要なことがひとつ明らかになりました。
大木めざして俺が並木道を歩いているあいだ(だけには限られませんが)、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、音、俺の「過去体験記憶」、俺の「未来体験予想」等が、「応答し合いながら共に在る」というのは、それら大木等にとってはまさに、一丸となって、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに答えるということである(一丸となって、「今」を出来事の最中とすることである)、といま明らかになりました。
「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに大木等が一丸となって答えるというこのことは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えることと言い換えられます。
さて、ずっとまえのところで確認しておきました。「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるというこのことは、「今・どう・しようとするか」という問いに俺が身をもって答えることとさらに言い換えられます。
したがって、大木等が、「応答し合いながら共に在る」というのは、「今を・どういった・出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであり、ひいては、「今・どう・しようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであると申せます。
さあ、ここでつぎのことを再確認します。
1.みなさんは、生きておられるあいだどの瞬間でも、「今・どう・しようとするか」という問いに身をもってお答えになる。
2.「今・しようとしている」ことが、行動とか行為とか運動とかとよばれるものである(「今・なにを・しようとしているか」を言えば、どういった行動をとっているか表現していることになる)。
3.そのように答えているときに、「今どうしようとするか、かなりはっきりしてい」れば、快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていな」ければ、苦しさを感じていると表現する*2。
以上、俺が、物を見るということについて確認しなおすところからはじめ、快さ苦しさが何であるかを理解するに至った道筋をご確認いただきました。
西洋学問では、この道のどこで足を踏みはずし、その結果、快さや苦しさが何であるかを理解できなくなったのか、つぎに見ていきます。
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