*科学するほど人間理解から遠ざかる第16回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである*1と俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところからたどっています。
俺が大木めがけて並木道を歩いている場面をみなさんにご想像いただいてきました。それは、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在るのをご確認いただくということでした。
しかし、補足しておかなければならないことがひとつあります。
それは過去の記憶と未来の予想についてです。
ご想起ください。俺は大木に歩みよっているあいだどの瞬間でも、つぎのふたつのことをしていました。
- 自分がその大木に、その瞬間までどのように歩みよってきたか、過去体験を記憶していた。
- 自分がその大木に、その瞬間よりあとどのように歩みよっていくか、未来体験を予想していた。
これら、その瞬間に記憶されている過去体験と、予想されている未来体験とをそれぞれ、過去体験記憶、未来体験予想と以後よぶことにします。
先刻申しましたように、大木、俺の「身体の感覚部分」、俺の「身体の物部分」、太陽、雲、道、他人の身体、音等は、「応答し合いながら共に在る」ということでしたが、そのように「応答し合いながら共に在る」もののなかに実は、俺の「過去体験記憶」や「未来体験予想」も含まれるということを以下、順に確認させていただきます。
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