(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

物を見るとはどういうことか俺はこのように理解した

*科学するほど人間理解から遠ざかる第11回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところから、みなさんと一緒にたどることにしました


 そして早速、物を見るということについて確認しなおすべく、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想定いただきながら、つぎのふたつについて確認しました。

  1. その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿
  2. その瞬間の俺の身体


 確認したのはそれぞれこういうことでした。

  • 確認1.その瞬間、大木は、俺の前方数十メートルのところに、俺のほうを向いた面の上ッ面のみ「見えるありよう」、それ以外のところはすべて「見えないありよう」といった姿で在る。
  • 確認2.その瞬間、俺の「身体の物部分」は、俺自身にたいして、全体まるまるひとつが「見えないありよう」を呈した姿で在る。そして、「身体の感覚部分」があるのとおなじ場所を占めている(おなじ場所を占めている「身体の物部分」と「身体の感覚部分」とを合わせたものが身体である)。


 さて、俺の前方数十メートルのところにあるその大木の姿(確認1)をこのとき俺は目の当たりにしているわけです。たがいに数十メートル離れたところにある、その大木の姿と、その瞬間の俺の身体(確認2)とは、このとき、俺のしている(大木を見ているという)体験に共に参加していると言えます。すなわち、それらふたつは、このとき共に、俺のしている体験の部分です。

  • 確認3.たがいに数十メートル離れたところにある、大木の姿(確認1)と、俺の身体(確認2)とは、このとき、「俺のしている体験に共に参加している(共に、俺のしている体験の部分である)」*1


 いま、物を見るということについて確認しなおしました。おそらくみなさん、キツネにつままれた思いでいらっしゃるのではないでしょうか。3点確認しなおしましたけれども、いずれもみなさんにとってみれば、ごくごく当たりまえのことばかりで、わざわざ確認するほどのものとはお感じになれなかったにちがいありません。


 ですが、これらの確認がずいぶんあとになってからビシバシと効いてくること、請け合いです。


 さあ、いま確認しましたところを踏まえ、今度は大木を見ている俺を動かせてみることにしましょう。

つづく


前回(第10回)の記事はこちら。


このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:「さて」からはじまるこの段落部分の表現の一部を、内容は変えずに、2018年10月23日に改めしました。