*科学するほど人間理解から遠ざかる第12回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋をたどっています。
その道は、物を見るということについて確認しなおすところからはじまると先に申しました。そしてちょうどいま、実際に確認しなおしてみました。俺が並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を見ているある一瞬をみなさんにご想定いただきながら、その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿と、その瞬間の俺の身体とがそれぞれどんなふうにあるか確認したあと、たがいに数十メートル離れたところにあるそれら大木の姿と、俺の身体とが、そのとき、俺のしている体験(大木を見ているという体験)に共に参加している、すなわち、それらふたつが共に、俺のしている体験の部分であるのを確認したという次第です*1。
では、そうして確認した、みなさんにとってはごくごく当たりまえのことどもを踏まえたうえで、つぎに参りましょう。
ここまで、俺が大木を見ているある一瞬をご想像いただいてきましたけれども、ここからは俺が大木に歩みよっている場面をご想像いただきます。
ご用意はよろしいでしょうか。
みなさん、活き活きとご想像ください。
青い空、こどもたちの黄色い歓声、かぜに舞う桜色の花びら、並木道には、黒、茶、金、白、薄だいだい色等のあたまの数々、俺の前方には緑色にもえあがったいっぽんの大木。
俺はその大木に歩みよっています。
みなさん、ご想像くださっているでしょうか。俺がその大木に歩みよるにつれ、俺が目の当たりにしている大木の姿が刻一刻と大きくなっているのを。
もちろん、大木の実寸が刻一刻と大きくなっていると申しているのではありません。実寸は俺が歩みよっているあいだ変わらず一定です。刻一刻と大きくなっているのはあくまで大木の、姿、です。そうして姿が一瞬ごとに大きくなればこそ、大木の実寸もつねに一定に保たれ得るというものです。
俺が歩みよっているのに、大木の姿がまったく大きさを変えていなければ、俺は大木の実寸が刻一刻と縮んでいっているのをまざまざと目撃していることになるじゃありませんか。
俺が歩みよるにつれ、大木は刻一刻と姿を大きくしていきます。その姿を一瞬ごとにくっきりさせてもいきます。遠方でボヤけていた姿が、いつのまにか、木目の細部までありありとわかるようにくっきりしています。
また、歩みよっている途中で俺が瞳を閉じれば、大木は姿全体まるまるひとつを「見えないありよう」に変え、ふたたび俺が目をさっと開ければ、俺のほうを向いた面の上ッ面のみ「見えるありよう」にして俺を待ち受けます。俺がサングラスをかければ、それまでのどこか黄色っぽい姿を、一転、黒い姿にとって変えもします。
さて、こんな大木のありようをみなさんなら、なんとご表現になるでしょう。俺はいまのところつぎのような表現しか思いつかず、壁を、頭から滲み出る赤色で染めています。
- 案1.大木は、「俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、終始答える
- 案2.大木は、応答しながら俺の身体と共に在る。
- 案3.大木は、俺の身体と共に在るにあたって応答する。
みなさんはどうご表現になりますでしょう。よろしければ是非ともご教示ください。
前回(第11回)の記事はこちら。
それ以前の記事はこちら。
第1回(まえがき)
第2回(まえがき+このシリーズの目次)
第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回(西洋学問で快さと苦しさが何であるか理解されてこなかった理由を確認します。第19回③まで)
第9回
第10回
このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。
*1:2018年10月23日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。