(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

大木、まわりの空気を読む

*科学するほど人間理解から遠ざかる第13回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである*1俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところからたどっています


 いまみなさんには、青空のもと、こどもたちの黄色い歓声や桜色の花びらが舞うなか、俺が、並木道を、黒、茶、金、白、薄だいだい色等のあたまの数々のなかに混じって、緑色に燃えあがったいっぽんの大木めざし、歩みよっている場面をご想像いただいています。


 大木は、俺が歩みよるにつれ、刻一刻と姿を大きくかつ、くっきりさせていくということでした。瞳を閉じれば、大木はその姿全体まるまるひとつを「見えないありよう」にし、ふたたび目を開ければ、俺のほうを向いた面の上ッ面だけきっちり「見えるありよう」に変えて俺を待ちうける。またサングラスをかければ、それまでのどこか黄色っぽい姿を、一気に黒い姿に変更する、とのことでした。


 こうした大木のありようを俺は、うまく表現できないもどかしさにクチビルを真っ赤に噛みやぶりながら、こう表現しました。


 大木は、「俺の身体と共に在るにあってどのようにあるか」という問いに、終始答える  *2


 大木についてさらに見ていきます。


 大木は、太陽が雲間にかくれれば俺の目のまえでその姿を薄暗くし、ふたたび太陽が雲間から顔を覗かせれば、姿をまた黄色っぽくします。


 大木は、「太陽や雲と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも答えます。


 風が吹くと、大木は身をゆすります。大木は、「風と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも答えます。


 俺の真んまえに背の高い他人がすべり入ってくれば、大木は、そのひとの身体の向こうで、その姿全体まるごとひとつを「見えないありよう」に変えます。そうして、「他人の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにも答える旨、示します。


 引きつづいてガサガサいう音が再度すれば、大木はそくざに、まるごと全部が「見えないありよう」を呈しているその姿を、他人の身体ごしにゆすって、「音と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えるところを俺に見せつけ(?)もします。


 さあ、ここまで見てきたような大木のありようをみなさんは、どう表現なさいますでしょうか。


 みなさんの代わりにここで俺がおのれの口から出せる言葉は、お恥ずかしながら、こんなところです。


 大木は、「他のもの(俺の身体や太陽や雲や他人の身体や音等)*3と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、終始答える  


 いやそれとも、哲学用語を使って、大木は対他である、とでも言った方がいいのでしょうか(対他の関連用語は、即自や対自であると申し添えると蛇に足が生える気がしますが……)。どう表現したものか悩みます。


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このシリーズ(全32回)の記事一覧はこちら。

 

*1:快さと苦しさがそのようなものであることを第3回から第7回②にかけて確認しました。

第3回


第4回


第5回


第6回


第7回

*2:先に挙げました表現案2と3は割愛します。ちなみに表現案2と3はそれぞれつぎのとおりです。

案2.大木は、応答しながら俺の身体と共に在る。

案3.大木は、俺の身体と共に在るにあたって応答する。

*3:「他」と書いていたところを「他のもの」に変更しました。2018年10月13日