(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

西洋学問に人間が理解できなくなった瞬間①

*科学するほど人間理解から遠ざかる第19回


 快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところ(いわゆる〈出発点〉から、長い時間をかけてたどってきました*1


 西洋学問では、そのいわゆる〈出発点〉でつまずいたばっかりに、以後、快さや苦しさが何であるかが理解できなくなったということを、これから確認します。


 いわゆるその〈出発点〉で、物を見るということについて俺がどう確認しなおしたか、みなさん、いますぐご想起になれますか。並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をみなさんにご想像いただきながら、その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿と、その瞬間の俺の身体について、それぞれどのようにあるかをまず確認しました。で、そのあと、たがいに数十メートル離れたところにある、それら大木の姿と、俺の身体とがそのとき、俺のしている体験(大木を見ているという体験)に共に参加しているのを確認しました。すなわち、それらふたつは、そのとき共に、俺のしている体験の部分であるということでした。


 そのさい、みなさん、そんなごくごく当たりまえのことをわざわざ確認してどうなるのか、と怪訝にお思いになったのではなかったでしょうか*2


 どうでしょう、思い出してごらんになれましたか。


 ところが西洋学問では、その〈出発点〉で、ある不適切な操作をしでかします。その操作を、かつて俺が勝手につけた、絵の存在否定という名で以後呼ぶことをお許しください。


 その「絵の存在否定」という不適切な操作はいまの場合、つぎのふたつをするところからはじまります。俺が大木を目の当たりにしているその瞬間、

  • .大木と俺の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
  • .しかし、たがいに数十メートル離れたところにある、それら大木と俺の身体とを、「俺のしている体験に共に参加している」ことはないもの同士と考える。すなわち、大木を、俺のしている体験の部分であるとは認めない(部分であることを否認)。


 するとどうなるか。


 その瞬間、「大木を見ているという俺の体験は存在していないことになります。俺にはそのとき大木は見えていないことになります。見えていない大木と俺の身体とが、たがいに離れた場所にただバラバラにあるだけということになります(3.絵が存在していないことになる)。


「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士であると解された、大木と俺の身体なんかをどう足し合わせても、「大木を見ているという俺の体験」は出てきません。


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*1:その道筋は、箇条書きで書けばこういったものでした。参考程度に挙げておきます。

  • 出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。
  • 第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在ることを確認する。
  • 第3地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るというのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。
  • 第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。
  • 第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。

    *2:第11回