*科学するほど人間理解から遠ざかる第14回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということである*1と俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点である、物を見るということについて確認しなおすところからたどっています。
俺がいっぽんの大木に歩みよっている場面をいまみなさんにご想像いただいています。
大木は、俺が歩みよるつれ、姿を刻一刻と大きく、かつくっきりさせていき、太陽が雲間にかくれれば俺の目のまえでその姿を薄暗く、ふたたび太陽が雲間から顔を覗かせれば姿を黄色っぽくし、風が吹けば姿をゆすり、俺の真んまえに背の高い他人がすべり入ってくれば、姿全体まるごとひとつを「見えないありよう」に変え、ガサガサいう音が再度すればとたんにその姿を、他人の身体ごしにゆするとのことでした。
こうした大木のありようを俺はつぎのように表現しました。
大木は、「他のもの*2と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答える、と(大木は対他であるとも申しましたが……)。
しかし、このような問いに答えるのは、大木だけに限らないのではないでしょうか。
俺の身体についても見てみます。
みなさんにいまご想像いただいていますように、並木道を大木に向かって歩いていくというのは、まさに俺の身体にとって、「他のもの(大木、太陽、雲、道、他人の身体、音等)と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えていくことに他ならないのではないでしょうか。
いま大木が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものであること、そして俺の身体もおなじくそうであることを確認しました。これらふたつしか見ないでいきなりつぎのように断定申し上げるのはいささか気がひけ、顔面がブザマにひきつりますが、賢明なみなさんになら何の支障もないだろうと思われます。
物や身体のみならず、存在(空いている場所、音、匂い、味などを含む)はどれもみな、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである、と。
みなさんには、俺が並木道を大木に向かって歩いている場面をご想像いただいてきました。すなわち、大木、俺の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音等が互いに、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答え合っているのをご確認いただきました。ご確認いただきましたこのことを以後、意味はそのままに(少々言葉足らずな気がして胃が痛みますが)つぎのように表現していくことにします。大木、俺の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在る、と*3。
みなさんにはここまで、俺が大木に歩みよっている場面をご想像いただいてきました。それは、大木、俺の身体、太陽、雲、道、他人の身体、音等が、応答し合いながら共に在るのをご確認いただくことだったという次第です。
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