(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学の奇っ怪な出発点は「部分」の否認にあり③

 鐘は、科学の手にかかるとこのように、ほんとうは見えないものであるということになる。俺が目をつむっていても、開けていても、眼鏡をかけていてもいなくても、後ろを向いていても、まえを向いていても、何ら変わることのないもの(見えないまま)であることになる


 科学が一気につぎのように決めつけることによって、前記2「存在の客観化」という存在すり替え作業をなすのはここで、である。


 鐘は
、俺が目を開けていようが開けてなかろうが、眼鏡をかけていようがかけてなかろうが、まえを向いていようが向いてなかろうが、何ら変わらないどころか、俺が1キロ離れたところにいても、30センチしか離れていないところにいても、太陽が雲間に隠れていても、雲に遮られていても、何ら変わることのないものなのである、と。


 実際のところ、鐘は、俺が近くづくにつれ、姿を刻一刻と大きく、かつ、くっきりさせていく(そうして姿を一瞬ごとに大きくしていくことで、鐘は実寸を終始一定に保つ)。俺が目をつむれば、姿を「見えないありよう」に変え、太陽が雲間に隠れれば、その姿を薄暗く、ふたたび太陽が雲間から現れれば、姿を黄色っぽく変えてみせる。このように鐘は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、逐一答える相対的なものであるが、科学はいま見たように、鐘を事実に反して、無応答で在るもの(客観的なもの)であることにすり替えるというわけである。


 さあ、今回は、科学が事のはじめになすふたつの操作、「絵の存在否定」および「存在の客観化」を素描した*1


 では最後に、あとひとつだけ確認して終わることとしよう。そのためにみなさん、ご自身がいま、ある一枚の絵をごらんになっているものとご想像くださるだろうか*2


 それは、抜けるように青い空のもと、赤茶けた地面が見わたすかぎり広がっている絵である。


 まず「抜けるような青空」と「赤茶けた地面」のふたつが、その絵(の姿)に共に参加しているのをご確認いただきたい。


 ついで、つぎのふたつの操作をなしてくださるだろうか。

  • ⅰ.それら「青空」と「地面」のふたつが、カンバスのそれぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
  • ⅱ.しかしそれらふたつが、「ひとつの絵に共に参加している」のは認めない。すなわち、それらふたつを、「ひとつの絵に共に参加している」ことのないもの同士と考える(部分であることの否認)。


 すると、どうなるか。


 青空のもと、赤茶けた地面が見わたすかぎり広がっているという絵柄は存在していないことになる
。その絵の真んまえにみなさん目を開けていらっしゃるのに、そんな絵の存在は認められないということになる。ただみなさんのまえには、「青空」と「赤茶けた地面」とがただバラバラにあるだけということになる。


 いま、一枚の絵が忽然として存在していないことになるのをご確認いただいた。科学が事のはじめになす前記1の操作を俺が「絵の存在否定」と呼ぶ理由を最後におかわりいただけたなら、幸いである*3

(了)


次回は7月22日(日)朝9:00にお会いします。快さと苦しさについて考察をはじめます。


後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。

  • 変更前:07:00
  • 変更後:07:05


ひとつまえの記事(②)はこちら。


今回の最初の記事(①)はこちら。


このシリーズ(全3回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2019年11月8日にこの一文を追加しました。

*2:2019年11月8日にこのパラグラフの文章を加筆修正しました。

*3:2018年11月4日と2019年11月8日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。