(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

ついに私は脳となる

*心はいかにして科学から生まれたか第6回

 現代科学は、私を心なるもののこととしたこのところから、さらに一歩進める。ながらく非物質と考えてきたこの心なるものを脳の物質的活動であることに変更し(心脳同一説)、私とは脳(の物質的活動)のことであるとする。みなさんよくご存じのとおり、現代科学の最先端をゆく脳科学とは、脳をひとりの人間に見立てる(擬人化する)学問、逆の言いかたをすれば、人間を脳にまで縮小する学問である。脳科学は、脳が「身体機械」をコントロールするとし、歩くという運動なら、脳がその計画を立て、手足の筋肉に運動指令を送り、その計画どおり動かすのだと説明する。


 このように心を非物質から脳(の物質的活動)のことに変更すればとうぜん、心のうちにある像と考えてきた、松の木の姿、足音、レモンの匂い、コーヒーの味、ふわふわの感触、「身体の感覚(部分)」などをも、脳の物質的活動のことと考え改めることになる。脳科学はいまや、私の心のなかにある像と科学がながらく説明してきた、物体の姿、音、匂い、味、感触、「身体の感覚(部分)」を、脳の視覚野や聴覚野といった特定領野に起こる物質的活動ことであると説明するに至っている。


 以上、心が生まれた来たった経緯と、私が脳にまで縮小されるに至った経緯を、科学がみずからの出発点に置く「絵の存在否定という不適切な操作から見てきた


 では最後に、このふたつの経緯をクドクドとおさらいしながら、みなさんとお別れする。


 科学は「絵の存在否定という不適切な操作をみずからの出発点に置き、存在を、見ることも触れることも聞くことも嗅ぐことも味わうこともできないものと考えることになった。現に目の当たりにしている松の木の姿や、現に聞いている足音、現に嗅いでいるレモンの匂い、現に味わっているコーヒーの味、現に触れているセーターの感触などはこの世に在るものではなくなり、行き場(在り場?)を失うことになった。そこで科学はそれらを収納する場所として、実際にはありもしない心なるものを想定し、それらをその心のなかにある像であることにした。そうして、私の心の外に実在する、見ることも触れることも匂うことも味わうことも感じることもできない、「ほんとうの存在」についての情報であることにした。


 これが、心の生まれ来たった経緯である。


 身体とは実際のところ、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とが同じ場所を占めてひとつになっているもののことである。しかし科学は、「絵の存在否定という不適切な操作によって、それら「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」を共に私の心のなかにある像であることにし、私の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」(身体機械)*1についての情報とした。ところが、身体とはそのように心の外に実在する「身体機械」のことであって、見ることや触れることをはじめ、じかに関わることは一切できないとなると、私とは心であることにならざるを得ない。実際はみなさんどなたも、ご自身の姿を差して、私とおっしゃるところ、科学はこうして、私をありもしない心なるものにまで縮小することになった。そこからさらに現代科学の最先端は、心を非物質ではなく、脳の物質的活動であることに変更し、私を脳(の物質的活動)のこととするに至っている(脳科学はしきりに脳を擬人化している)。

(了)


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第3回


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*1:2018年7月31日付記。この「ほんとうの身体の物的部分」とは、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないと科学が考えるところの、元素、のよせ集まったものです。