*心はいかにして科学から生まれたか第3回
この世界絵のうちには、定義上とうぜんであるけれども、いまこの一瞬に私が体験しているものすべてが認められる*1。その瞬間に目の当たりにしている景色、聞いている音、嗅いでいる匂い、味わっている味、感じている自分自身の「身体の感覚(部分)」(朝の朝刊、みたいな重複表現になっているが)、想像している像、自分が捉えている限りでの、他人の身体(「身体の感覚部分」を含む)や他人の体験内容などが、その世界絵のうちには認められる。
では、この「世界絵」という言葉を使って、ここからは「絵の存在否定」という操作について見ていく。
この「世界絵」という言葉を使うと、こう言える。いまこの瞬間、私が松の木の姿を目の当たりにしているのなら、その姿と、その瞬間の私の「身体の感覚部分」とは、「ひとつの世界絵に共に参加している」*2と。また私がいまこの瞬間、部屋の外の廊下を歩く足音を聞いているのなら、その音と、その瞬間の私の「身体の感覚部分」とは、「ひとつの世界絵に共に参加している」と言え、いまこの瞬間、私がレモンの匂いを嗅いでいるのなら、その匂いと、その瞬間の私の「身体の感覚部分」についても、「ひとつの世界絵に共に参加している」と、さらには私がいまこの瞬間、コーヒーの味を味わっているのなら、その味と、その瞬間の私の「身体の感覚部分」も、「ひとつの世界絵に共に参加している」と言える。
しかし科学は、このように「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士を、それぞれがその瞬間に在る場所に在るのは認めても、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士であるとは認めない。事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であると考える。すると、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士をいくら足し合わせても、「世界絵」は出てこないということになる*3。一転、「世界絵」は存在していないことになる*4。
私はみなさんに何を申し上げているのか。
ある一枚の絵をご想像いただきたい。それは、赤く色づいた葉々をたくさん付けた一本の枝を、まっ青な空を背景にして描いた、青と赤の色の対比があざやかな絵である。まっ青な空と、紅葉した葉々を付けたその枝とは、まさに「ひとつの絵に共に参加している」もの同士である。ところが、それらふたつを、それぞれが在る場所に在るのは認めるものの、事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士と考えれば、どうなるか。
「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、青空と、紅葉した葉々を付けたその枝とを、どう足し合わせても、青と赤の色の対比があざやかな絵は出てこないということになる。みなさんにご想像いただいている、色の対比があざやかな絵は一転、存在していないことになる。
この喩えのように「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士を、事実に反して「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにし、「世界絵」を一転、存在していないことにする作業を、絵の存在否定と呼ばせていただくというわけである。
前回(第2回)の記事はこちら。
このシリーズ(全6回)の記事一覧はこちら。
*1:2018年7月31日付記。「絵の存在否定」を見るのに、わざわざこんな「世界絵」がドウのコウのなどと申し上げる必要はまったく無かったといまになってみれば思います。この段落は不要です。
*2:2018年7月31日付記。現在なら、ここはこう書きます。「いまこの瞬間、私が松の木の姿を目の当たりにしているのなら、その姿と、その瞬間の私の「身体の感覚部分」とは、そのとき、俺のしている体験(松の木を見ているという体験)に共に参加しているということになる、と」。
*3:2018年7月31日付記。現在ならこう書きます。「そのときしている、松の木を見ているという体験、あるいは足音を聞いている、もしくはレモンの匂いを嗅いでいる、またはコーヒーの味を味わっているという体験は出てこないことになる」。
*4:2018年7月31日付記。いまならこう書きます。「一転、そのときしている体験は存在していないことになる」。