(新)Nothing happens to me.

科学はボタンをかけ違えたまま来たのではないでしょうか。

事の発端は「絵の存在否定」という不適切な操作にある(前半)

科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第2回

 科学が「身体の物的部分」を機械と考えるに至る事の発端は、離れた場所にあるもの同士のあいだにも認められる「ひとつの絵に共に参加している」という直接の関係*1を、この世界から一掃することにあると先走って申しました。いまから、「ひとつの絵に共に参加している」という直接の関係を世界から一掃するとはどういうことなのか見ていきます。


 深紅の葉々が、まっ青な空を背景にして描かれている一枚の絵をみなさん、ご想像ください(深紅の葉々を下からどアップにした構図です)。ぬけるような青空と、もえるような深紅の葉々の色の対比があざやかです。


 この場合、青空と深紅の葉々のふたつは、「ひとつの絵に共に参加している」と言えます。


 しかし、青空と深紅の葉々のふたつを、それぞれが在る場所に在るのは認めるものの、事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士と考えますと、とうぜんですが、話は違ってきます。


「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士である、青空と深紅の葉々のふたつをどう足し合わせてみても、青空と深紅の葉々とが色あざやかな対比を見せている絵は出てきません。みなさんにいま想像していただいております絵は、一転、存在していないことになります


 例をもって確認していただきました。青空と深紅の葉々のように「ひとつの絵に共に参加している」もの同士を、それぞれがいま在る場所に在るのは認めるものの、事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにすり替えるのは、ひとつの絵の存在を否定することでした。以後、「ひとつの絵に共に参加している」もの同士を、このように事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにすり替える操作を、「絵の存在否定」と呼んで参ります。


 まず、「絵の存在否定」という操作について確認いたしました。今度は、絵という言葉について見ていきます。


 絵は二次元と言われます。けれどもそこに俺たちはしばしば三次元を認めます。あるカンバスの向こうでは女性が牛乳をそそいでいますし、日曜日、ブラウン管の向こうには、イソノ家のお茶の間が広がります。またこのように絵が三次元たりうるところから、俺たちは景色という三次元を絵と呼んだりもします。周囲一帯がまっ赤に夕焼けしている景色を指して、俺はアゴをなでまわしながら「いい絵だ」とつぶやくことができます。ひとがとっている仕草を、指で作った四角いワクごしに見て、「いいね、絵になるね」と感極まったようにうなることも可能です(恥ずかしくなければ、ですが)。あるいはみなさんも、ご友人や奥さまやご夫君が体験談を話されているのをお聞きになりながら、なんとも優しげに、「その場の絵が思い浮かぶようだね」とおっしゃったりなさるでしょう。


 ではここで、絵という言葉が、景色とか状況といった三次元を意味するこのところを最大限にまで拡大しまして、いまこの瞬間に俺が体験している世界のありよう全体を、絵というひと言で指してみることにします。そして以後これを、世界絵と呼んでいくことにします。

つづく


次回は22日(日)朝10:00にお目にかかります。


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*1:2018年8月2日現在ならここはこう書きますが。「体験に共に参加している」という直接の関係、と。以下同様。