(新)Nothing happens to me.

科学はボタンをかけ違えたまま来たのではないでしょうか。

事の発端は「絵の存在否定」という不適切な操作にある(後半)

科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか第3回

 科学が「身体の物的部分」を機械と考えるに至る事の発端は、離れた場所にあるもの同士のあいだにも認められる「ひとつの絵に共に参加している」という直接の関係を、この世界から一掃することにあると最初に申しました。「ひとつの絵に共に参加している」という直接の関係を世界から一掃するとはどういうことなのか現在、確認しようとしています。


 絵という言葉を最大限まで拡張し、いまこの瞬間に俺が体験している世界のありよう全体を、「世界絵」という言葉で指すことにしたところですけれども、この「世界絵」のなかには、とうぜんながら、その瞬間に俺が体験しているすべてが含まれます。すなわち、目の当たりにしている物体の姿、現に聞いている音、嗅いでいる匂い、味わっている味、想像している像、その瞬間の俺の「身体の感覚(部分)」、俺がその瞬間に捉えている限りでの、他人たちの姿(「身体の感覚部分」も含む)や彼らのしている体験内容などが、この「世界絵」のうちには認められます。


 よって、俺がいまこの瞬間に松の木を目の当たりにしているならこう言えます。その瞬間に俺が目の当たりにしている松の木の姿と、その瞬間の俺の「身体の感覚部分*1とは、その瞬間に俺が体験している「ひとつの世界絵に共に参加している*2と。


 同じく、俺がいまこの瞬間、部屋の外の廊下を歩くひとの足音を聞いているとしますと、その足音と、その瞬間の俺の「身体の感覚部分」とが、その瞬間に俺が体験している「ひとつの世界絵に共に参加している」と言え、もしいまこの瞬間、俺がレモンの匂いを嗅いでいるなら、その匂いと、その瞬間の俺の「身体の感覚部分」とが、「ひとつの世界絵に共に参加している」と、またいまこの瞬間に俺がコーヒーの味を味わっているなら、その味と、その瞬間の俺の「身体の感覚部分」とが、「ひとつの世界絵に共に参加している」と、それぞれ言えます。


 ところが科学は、俺がいまこの瞬間に目の当たりにしている松の木の姿と、その瞬間の俺の「身体の感覚部分」や、いまこの瞬間に俺が聞いている足音と、その瞬間の俺の「身体の感覚部分」のように、「ひとつの世界絵に共に参加している」もの同士を、それぞれがその瞬間に在る場所に在るのは認めるものの、事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにすり替えます。そうしてこの世界から、離れた場所にあるもの同士のあいだにも認められる、「ひとつの(世界)絵に共に参加している」という直接の関係を一掃するというわけです。


 青空と深紅の葉々とが色あざやかな対比を見せている絵を例に考察している際、「ひとつの(世界)絵に共に参加している」もの同士を、このように事実に反して、「ひとつの絵に共に参加している」ことはないもの同士であることにすり替える操作をまえもって、「絵の存在否定」と名づけておきました。


 科学が「身体の物的部分」を機械とするに至る事の発端は、「絵の存在否定」というこの不適切な操作にあります。いまから、その経緯をこの発端からたどっていきます。

つづく


次回は1月25日(水)朝7:00にお目にかかります。


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*1:身体とは、おなじ場所を占めている「身体の物部分」と「身体の感覚部分」とが合わさったもののことです。2018年8月2日付記。

*2:その瞬間に俺がしている体験に共に参加している、とここは2018年8月2日現在なら書きますが。