(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

存在は「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第8回


 ここまで、存在同士のあいだの「ひとつの絵に共に参加している」というつながりを切断する「絵の存在否定」を見てきた。


 確認したのは次の三つである。

  1. 科学はその「絵の存在否定」を身体に施し、みなさんの身体の感覚部分をみなさんの身体から除外して、意識なる正体不明なものの中身とする。
  2. 世界にもこの「絵の存在否定」を施し、みなさんの身体の感覚部分を世界からも除外して、世界の外にあるものとする(つまり世界を外界とする)。
  3. 「絵の存在否定」を世界に施すこのとき、みなさんの「身体の感覚部分」を世界から除外するいっぽうで、みなさんが現に目の当たりにしておられる物の姿現に聞いておられる音現に嗅いでおられる匂い現に味わっておられる味を、みなさんの意識内部にある像とし、それらの像に対応しているほんとうの存在が外界に実在していることにする。外界に実在しているほんとうの存在のコピー像を脳がみなさんの意識内部に作りあげる経緯を説くのが科学の知覚論である。


 科学は事のはじめに存在同士のつながりを切断する。その切断作業は二種類ある。以上が、そのうちのひとつである絵の存在否定についての確認である。ここからはもうひとつの切断のほうに話題を転じる。この切断については客観化と呼ぶことになる。


 科学が存在をどのようなものと見るかというところに着目する。


 部屋のなかにいる私が、部屋のとびらに向かって歩み寄ると、当のとびらの姿は刻一刻と大きくなる。とびらの実寸が大きくなると申し上げているのではない。実寸は終始一定である。とびらはそうして姿を一瞬ごとに大きくすることで、実寸を一定に保つ。私が歩み寄ってもとびらの姿が不変なら、とびらは逆に刻一刻と実寸が小さくなることになる。


 私が歩み寄るにつれ、とびらの姿は刻一刻と大きくなり、その木目模様もくっきりしてくる。斜めから近づくと、当初は縦に細長い姿であるのが、一瞬ごとに横に太ってもいく。


 このようにとびらは、「私の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである。


 しかしとびらが終始答えるのは、「私の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」というこの問いだけではない。「部屋の明かりと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにもとびらは終始答える。私がとびらに近づくにつれ、部屋の明かりを受けてとびらが呈する光の模様(反射模様)は刻一刻と変わっていくし、もし私が歩み寄っているあいだに明かりが明滅するようなことがあれば、とびらもそれに答えて姿を明るくしたり薄暗くしたりする。


 とびらに終始突きつけられる問いにはこれらのほか、「部屋の壁と共に在るにあたってどのようにあるか」や、「部屋の床と共に在るにあたってどのようにあるか」といったものもある。


 要するに、とびらは「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである。


 が、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるのはとびらだけではない。部屋の壁や、天井、床、明かりなどもそれぞれ、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」というこの問いに終始答えるものである。


 私の身体もそうである。部屋のとびらに向かって歩くというのはまさに私の身体にとって、「他(とびらや床や壁など)と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えることである。


 さらに身体を細かく見て、「身体の物的部分」や「身体の感覚部分」もそれぞれ、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものであるとも言える。「身体の物的部分」についてもっと細かく見れば、感覚器官(眼、耳、鼻、口、皮膚等)、神経、脳、臓器(心臓、肝臓、腎臓等)、血管、血液、骨、筋肉、関節それぞれも、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」というこの問いに終始答えるものであると言える。


 すなわち、存在は他と共に在るにあたってどのようにあるかという問いに終始答えるものだというわけである*1

つづく


前回(第7回)の記事はこちら。


このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年8月27日に表現を一部修正しました。