*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第9回
しかし科学は存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものとは考えない。
先ほど、私が部屋のとびらに歩み寄る例をあげ、そのとびらが「私の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えることを最初に確認した。とびらは終始、微動だにしなかったものの、私が近寄るにつれ、その姿を刻一刻と大きくし、かつその木目模様をくっきりさせていって、斜めから近寄っていく私にたいし、当初は縦に細長かった姿を一瞬ごとに横へ太らせてもいった。とびらは開閉も揺れもしなかったが、そのように毎瞬変化した。しかし、科学はそうは考えない。そうして私が歩み寄っているあいだ、そのとびらはまったく変化しなかったとする。そのようにとびらを、無応答で在るものとする。
とびらが、「部屋の明かりと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えることも先ほど確認した。部屋の明かりが明滅したり、電灯がオレンジ色に変わったりすると、とびらはそれに応えて、明るい姿を呈したり、薄黒い姿を呈したり、オレンジ色の姿を呈したりする。けれども科学に言わせれば、明かりがそのように明滅しているあいだも、電灯がオレンジ色に切り替わる前後も、とびらには一切、何の変化も起こらなかった。科学が考えるとびらは、ただ無応答で在るだけのものである。
科学は事のはじめにこうして存在を、無応答で在るものとする。この無応答であるということこそ、すなわち、目をつぶろうが、斜めから見ようが、明かりが明滅しようが、変化しないというこのことこそ、科学が言うところの客観的であるということである。そこで、科学が存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、無応答で在るものへすり替えるこの操作を、客観化*1と名づけることにする。
実際の存在は、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものであって、そのように答えることで、他の存在たちとつながっている。とびらに向かって歩み寄る例では、とびらは、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いにその姿をもって終始答えることで、私の身体や、部屋の明かり、床の姿、壁の姿、天井の姿たちとつながっていた。ところが、科学は存在を事のはじめに、無応答で在るものにすり替え、たとえばそのとびらを、私が目をつぶろうが、目を開けようが、どこにどのような姿勢で立とうが、部屋の明かりが明滅しようがオレンジ色に変わろうが、変わることのないものとすることで、当のとびらと、私の身体や部屋の明かりといった他の存在たちとのつながりを切断するというわけである*2。
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