(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

なぜ科学は存在から、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触をとり去っちゃう?

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第15回


 科学は事のはじめに存在同士のつながりをふたつ切断する。そのうちのひとつである「絵の存在否定」を先に見、いまは残りのひとつである「客観化」について見ている。


 存在は実際のところ、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである。部屋のとびらは、私が歩み寄れば、刻一刻とその姿を大きくし、かつその木目模様をくっきりさせていく。また部屋の明かりが明滅すれば、それに合わせて明るい姿を呈したり薄暗い姿を呈したりする。とびらはそのように「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えることで、私の身体や部屋の明かりといった他といわば、つながっている。


 ところが、科学は存在を「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものにすり替える「客観化」作業を行い、部屋のとびらを、私が近寄ろうが、部屋の明かりが明滅しようが、そんなことでは何ひとつ変化しないものであることにして、とびらと、私の身体や部屋の明かりといった他とのつながりを切断する(で、その後、存在同士をあらたにつなぎ直すわけだが、これについては別のところで考察する)。すると、存在は、容姿を含む)、匂い感触が、ほんとうは存在には属していないものとして取り除かれ、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かにまでやせ細ることになる(存在から取り除かれたそれらは私の意識内部へ移し替えられる)。世界は単に、「どの位置を占められているか」ということしか問題にならない何かであるところの空間のなかに、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かであるところの存在がそれぞれ位置を占めているだけのものになる。世界からはこうして、容姿(色を含む)も、音も、匂いも、味も、感触も抜け落ちる。


 以上が、いま見ている「客観化」の顛末であるが、それにしても、これは不思議な作業ではないだろうか。存在は実際のところ「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えている。誰しも存在がそうした問いに答えているのを日々、どの瞬間も目の当たりにしている。にもかかわらず、なぜ科学は存在をただ無応答で在るだけのものと思い込むようになったのだろう。存在が実際に「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えているのをわざわざ否定し、存在から、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触を取り除くというこみいった奇妙キテレツなことをしてまで、なぜ存在をただ無応答で在るだけのものにすり替えようとするのだろうか。


「客観化」についての考察を終える前に、この理由を以下確認する。


 この文章をとおして、科学が事のはじめに為す、存在同士のつながりの切断をふたつ、順に見てきた。そのひとつは「絵の存在否定」で、もうひとつがいま見ている、存在をただ無応答で在るだけのものにすり替える「客観化」である。


 前者、「絵の存在否定」をすると、自動的に「客観化」をすることになる。しなくてはならなくなるというわけである。


 どういうことか*1

つづく


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*1:2018年9月2日に、内容はそのままで、文章のみ一部修正しました。