*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第16回
存在は実際のところ「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである。部屋のとびらは、私が歩み寄れば刻一刻とその姿を大きくするし、部屋の明かりが明滅すれば、それに応じて薄暗い姿を呈したり明るい姿を呈したりもする。しかし、存在がこのように「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えているのを日々誰もがどの瞬間も目の当たりにしているにもかかわらず、なぜ科学は存在をただ無応答で在るだけのものと考えるに至ったのだろうか。
この文章をとおして、科学が事のはじめに為す、存在同士のつながりの切断をふたつ、順に見てきた。そのひとつが「絵の存在否定」で、もうひとつがいま見ている、存在をただ無応答で在るだけのものにすり替える「客観化」である。
前者、「絵の存在否定」をした結果、科学には存在がただ無応答で在るだけのものと考えられるようになったという次第である。
こういうことである。
「絵の存在否定」から考える。いま私が桜の木を目の当たりにしているとする。すると、いまこの瞬間に私が目の当たりにしている桜の木の姿と、その瞬間の私の身体とは、「ひとつの世界絵に共に参加している」と言えるようになる。ところが科学はここで、「絵の存在否定」という不適切なつぎの操作を為す。
- それら桜の木と私の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)が、
- それらふたつを、「ひとつの世界絵に共に参加している」ことのないもの同士と考える(部分であることの否認)。
こうした操作をすると、その瞬間、私が桜の木を見ているという世界絵は存在していないことになる。私には桜の木が見えていないことになる。私の身体と、見ることのできない桜の木がたがいに数十メートル離れた場所にただバラバラにあるだけということになる。けれども、現にその瞬間、私は桜の木を目の当たりにしているではないか? そこで科学は、桜の木を見えていないことにするために、私がその瞬間に目の当たりにしている桜の木の姿を、私の前方数十メートルのところにあるものではなく、私の意識内部にある映像であることにするとは、先に説明したとおりである。
科学の考えではこのように、私の前方数十メートルのところにある桜の木は、見えることのないものである。私が目を見開こうが、メガネをかけようが、望遠鏡を用いようが、見えないまま、何ら変化しないものであることになる。そこで科学は一気にこう結論づけるわけである。桜の木は、ただ無応答で在るだけのものである。私が桜の木から遠ざかろうが、あるいは逆に近寄ろうが、サングラスをかけようが、もしくは部屋の明かりがついていようが、消えていようが、はたまた明滅していようが、何ら変化することのないものなのである、と。
「絵の存在否定」の結果、すべて存在はこの桜の木のように、ただ無応答で在るだけのものと考えられるに至る。「絵の存在否定」と「客観化」は実はひとつづきになった一連の作業だと言うことができるだろう*1。
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*1:2018年9月2日に抜本的に書き直しました。