(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

数学万能、ビバ、マセマティックス、ビバビバ

*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第14回


 科学が存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものへすり替えるために、存在の実際の姿から、容姿を含む)、匂い感触をほんとうは存在には属していないものとして取り除き、私の意識内部へ移し替える次第をここまで、ざっと見てきた。存在の実際の姿からこのように、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触を取り除いたあとに残るものこそ、ただ無応答で在るだけのものであるところのほんとうの存在だというわけであるが、果たして存在の実際の姿から、そうして容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触を取り除いたあとに残るのは何なのだろうか。それは、「どの位置を占めているかということしか問題にならない何かとでも言うべきもの(デカルトが言う延長)である(ここでは力については考察に入れない)。「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないこの何かこそ、科学にとってのほんとうの存在である。


 科学にとって存在はもはや、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かである。科学は、占めている位置が変わることのみが存在に起こる変化だと考える。私が斜めから部屋のとびらに歩み寄れば、とびらの姿は刻一刻と大きくなり、当初は縦に細長いとびらの姿は横へ太っていって、その木目模様も一瞬ごとにくっきりしていくが、それは、とびらの占めている位置が変わるということではない。私が歩み寄るにつれ、とびらが見せるるこうした変化を、科学はとびらに起こる変化とは解さず、主観的変化、すなわち、私の意識内部にのみ起こる変化にすぎないとする(私の意識内部にあるとびらの映像が変化するだけのものとする)。科学がとびらに起こる変化と認めるのは、とびらが開閉するとか、とびらが壁から外れるとか、とびらに亀裂が入るといったように、とびらの占めている位置が変わることのみである。


 さて、このように存在を「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かとすると、世界(厳密には外界)は、「どの位置を占められているか」ということしか問題にならない何かに、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何か(存在)がそれぞれ位置を占めているだけのものになる。前者の「どの位置を占められているか」ということしか問題にならない何かとは、西洋哲学や科学の言う空間のことである。そしてこのように世界を解すると、世界はあますところなく数で捉えられると考えられるようになる。空間にx軸、y軸、z軸を設定し、その巨大な三次元座標のなかで存在が占める位置をそれぞれ、(x,y,z)形式で捉えれば、世界のすべてが掌握できることになる(ただし先にも書いたように、力については考慮に入れていない)。科学の考える世界には、青空のもと、黄金色の稲穂が一面に広がり、さらにはその下に焦げ茶色の地面が延びているというような光景、つまり「世界絵」は存在しない。


 存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものにすり替える「客観化」を進めると、このように、最初に確認した「絵の存在否定」に至ると言える*1

つづく


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*1:2018年9月1日に、内容はままで表現のみ一部修正しました。