*科学は存在同士のつながりを切断してから考える第10回
では、存在を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものから、ただ無応答で在るだけのものへすり替えるこの「客観化」で存在同士のつながりを切断すると、いったい何が起こるのか確認する。
何度も申し上げているように、実際のところ存在は「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに終始答えるものである。私が歩み寄れば、とびら(終始、微動だにしないものと仮定する)は刻一刻とその姿を大きくし、その木目模様をくっきりとさせ、斜めから近づく場合なら、当初は縦に細長い姿を一瞬ごとに横へ太らせてもいく。もしそうして歩み寄っているあいだに、部屋の明かりが急に明滅するようなことがあれば、部屋のとびらはさらに、明るい姿を呈したり、薄黒い姿を呈したりもする。このように、歩み寄っているあいだに私が一瞬ごとに目の当たりにするとびらの姿は複数あって、そのどれもがたがいに違っている。
にもかかわらず科学は存在を、ただ無応答で在るだけのものと定義する。私がそうしてとびらに歩み寄っているあいだ、とびらは一切変化しないことにする。私が歩み寄っているあいだのどの一瞬のとびらも、たがいにこれひとつとして違ってはいないと考える。
先に確認したように、実際のところ、歩み寄っているあいだに私が目の当たりにするこのとびらの姿は複数あって、それらはたがいにすべて違っているが、いま見たように科学はとびらがそのように違っているのを認めないわけである。
そして、現実と自らの考えとが背反するこのところで科学は大胆にも、現実に合うよう自らの考えを修正するのではなしに、自らの考えに合うよう、現実のほうを修正する逆の道をとる。つまり、存在をただ無応答で在るだけのものであることにするために、ここから現実のほうを正していく。こういったふうにである。
存在が科学の考えるように、ただ無応答で在るだけのものであるなら、私が歩み寄っているあいだのどの一瞬のとびらも、たがいにこれひとつとして違ってはいないはずである。ところが先に確認したように、私が実際に一瞬ごとに目の当たりにするとびらの姿同士はたがいにすべて違っている。そこで科学は、それら実際に認められる違いをすべて、ほんとうは当のとびらには属していないものとしてとびらの実際の姿から取り除き、実は私の意識内部にあるものとする。で、その作業のあとに残るものこそ、ほんとうのとびらであることにする。そうすれば、私が歩み寄っている間のどの一瞬のとびらも、たがいにこれひとつとして違っていないことになる。とびらを一転、ただ無応答で在るだけのものとすることが可能になる*1。
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*1:2018年8月29日に、内容はそのままに表現を一部修正しました。