*デカルトの超絶手品ぁ〜ニャで科学は基礎を形作る第8回
デカルトは『省察』*1の第2省察で俺たちの目の前に蜜蝋を持って現れたときすでに蜜蝋を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものから、無応答で在るものにすり替えていたのではないでしょうか。つまり、紙のムコウで彼は最初に蜜蝋を、巣から取り出されたばかりだと言って手に持ち、高く掲げましたが、その時点ですでに蜜蝋を、みなさんがどんな見方をしようが、どんな明かりのもとで見ようが、「これひとつとして違いを見せることのない」ものにすり替えていたのではないでしょうか。デカルトが持っていた蜜蝋には最初から、簡単に分割できるよう、ほんとうは当の蜜蝋には属していないと彼がするものと、ほんとうに当の蜜蝋に属していると彼がするもの(彼は本性と呼んでいます)とのあいだに割れ目が入れられていました。あとは俺たちの前で、準備していたとおり、その割れ目の辺りにちょっと力を入れ、蜜蝋から、「ほんとうは当の蜜蝋には属していないと彼がするもの」、すなわち、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、を取り去ればいいだけにしてありました。
そして彼は実際にそうしました。
すると俺たちの目の前には、「ほんとうに当の蜜蝋に属していると彼がするもの」(本性)だけが残りました。
それこそ、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何か(デカルトの言う延長です)でした。
そこで彼は、手元に残った「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないその何かを俺たちのまえにぐっと突き出し、俺たちをケムに巻くかのようにこう言ってのけたわけです。
いついかなるときも、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならないこの何かは蜜蝋のうちに認められる。ところが、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、は、どうだ。これらのものどもはあったり無かったりする。いついかなるときにもあるものこそホンモノであり、そのときどきであったり無かったりするものはニセモノにすぎない、そうではないか紙面のムコウの賢明な淑女紳士たちよ、と。
なぜ、あったり無かったりすると、「ほんとうは蜜蝋には属していない」ことになるのか、まったくわからないでいた俺たちも、デカルトの見事な手さばきとそのケムに巻くかのような勢いに呑まれ、デカルトがそう言うなら、きっと、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、は「ほんとうは蜜蝋には属していない」に違いないのだと信じこんでしまいました。実際のところ蜜蝋を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものから、事実に反して、無応答で在るものへすり替えようとしますと、存在の、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触が邪魔になって、存在の実際の姿から、「ほんとうは当の存在には属していないもの」として取り除くしかなくなるのだという事情を俺たちは知りませんでした。
まさに俺たちは、この超絶手品の核心である、蜜蝋を、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものから、無応答で在るものへすり替える「存在の客観化」が目の前でなされていることにつゆ気づいていなかったのです。
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