(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

デカルト超絶手品のタネ明かしに踏みこもうとする数日前の巻

デカルトの超絶手品ぁ〜ニャで科学は基礎を形作る第7回


 実際は「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものである存在を、事実に反して、無応答で在るものにすり替えますと、存在の実際の姿から、ほんとうは存在には属していないものとして容姿を含む)を取り除かなくちゃなんなくなることをいま確認しました。これと同様に、匂い感触も、ほんとうは存在には属していないものとして、存在の実際の姿から取り除かなくちゃなんなくなるわけですが、その説明は割愛させてください。疲れました。


 何度も申して恐縮しますけれども、俺の愛しのコートや郵便ポストのように、存在はすべて、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものです。にもかかわらず、存在を、事実に反して、無応答で在るもの(客観的なもの)にしようとしますと、存在の実際の姿から、ほんとうは当の存在には属していないものとして、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触を取り除かなくちゃなんなくなります。では、そうして、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触を取り除きますと、そのあとには何が残るのでしょうか。それは、先に申しましたように、「どの位置を占めているかということしか問題にならない何かです(力も問題になると思われますが、いまのところ、力について考えるのはやめておきます)。これをデカルト延長と呼びました。「ただ単に、長さと幅と深さとに拡がっている」*1ことと表現したりもしました。で、科学もまた、「どの位置を占めているか」ということかしか問題にならないこの何かこそ、ほんとうの存在だと俺たちに説いて聞かせてくれます。


 先に見ましたデカルトの超絶手品に戻りましょう。


 百聞は一見にしかずということで、最初に俺たちは、デカルトが蜜蝋を用いて超絶手品を実演するのを目にしました。そして、あれよあれよという間に、蜜蝋から、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、が、つねにあるのではないという理由で、ほんとうは当の蜜蝋には属していないものとして取り除かれ、蜜蝋が、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何かに変わり果てるサマを、マザマザと目の当たりにしました。不思議でした。なぜつねにあるのではないという理由でデカルト蜜蝋から容姿を含む)、匂い感触をほんとうは当の蜜蝋には属していないものとして取り除くのか、意味がまったくわかりませんでした。俺の愛しのコートは、染めなおしたいまはもう紺色をしていて、ミドリ色ではありませんが、ミドリ色をしていた当時、そのミドリ色が当のコートに属していたことは間違いのない事実です。コートがつねにミドリ色であり続けているのではないとはいえ、ミドリ色が当時、俺のコートに属していなかったなどとは口が裂けても言えません。


 けれども、不思議でしかなかったその超絶手品のタネ明かしが、いまやできそうに思われます*2

つづく


前回(第6回)の記事はこちら。


このシリーズ(全9回)の記事一覧はこちら。

 

*1:デカルト『哲学原理』第2部4、桂寿一訳、岩波文庫、1964年、98頁、1644年

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

 

*2:2018年10月5日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。