*デカルトの超絶手品ぁ〜ニャで科学は基礎を形作る第9回
俺の推測が的外れであれなんであれ、デカルトが「存在の客観化」というこの超絶手品によって、存在を、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何か(延長)にすり替えたのは間違いのないところです。存在をそのようにすり替えた彼は、以後、世界を、「どの位置を占められているか」ということしか問題にならない何か(空間)に、「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何か(存在)がそれぞれ位置を占めているものと見ることになりました(ただし、いまのところ、力、については考察から省いています)。こうして、空間に三次元座標を設定し、それぞれの存在を(x,y,z)形式で表せば、世界の一切は把握できるはずだと考えられるようになった、すなわち、デカルトにて、数学による世界の完全掌握が高々と宣言されるに至った、とまで言うことすら、ひょっとすると可能かもしれません(不可能かもしれませんが)。
ところで、見忘れているものがひとつあります。デカルトが存在の実際の姿から、「ほんとうは存在には属していないもの」として取り除いた、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、たちのゆく末を俺たちはまだ見ていません。最後に、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、が存在の実際の姿から取り除かれたあと、どうなったのかを見届けてから、みなさんにお暇を告げることにしたします。
先ほど、デカルトが、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、を存在の実際の姿から取り除くのを見ました。取り除かれたそれらは、あれからどうなったのでしょうか。
超絶手品師デカルトのポッケのなかに入ったままになっているのでしょうか。
それともゴミ箱にでも捨ててしまわれたのでしょうか。
果たしてデカルトはそれらを、存在の実際の姿から取り除いたあと、私内部(心)のなかに放り捨てました。そして、俺の心の外に実在する、ほんとうの存在(「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何か)のコピー像を、脳が俺の心のなかに作る際、そのコピー像にそれら容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、をつけ加えるのだとしたわけです。
で、科学が、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触のこうした扱い方を受け継ぎました。科学もまた、ほんとうの存在には、容姿(色を含む)も、音も、匂いも、味も、感触、もなく、それらは単に、脳がみなさんの心のなかに、ほんとうの存在のコピー像を作る際、そのコピー像につけ加えるにすぎないものであると説いて聞かせてくれています。存在には色がなく、色は脳が私の心のなかに作るものにすぎないとする科学の知見を紹介してくださっている大変参考になる素晴らしい記事を最後に貼っておくことにします。
さて、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、の行く末を見届けましたここに至って、「科学は存在同士のつながりを切断してから考える」と題しました先日の文章*1の補足が完了いたしました。
科学は事のはじめに、存在同士のつながりをふたつ切断します。その切断作業のうちのひとつである、「絵の存在否定」をデカルトがどのようにやってみせたのかについては、先日書きましたその文章のなかで確認しました。今回は、残りのもうひとつ、「存在の客観化」という超絶手品を彼がどのようにやってのけたのかをご覧のとおり確認したという次第です*2。
参考記事
記事「『色』は光にはなく、脳の中にある」をご紹介します。と共に、蛇にいっぽん、足を次のようにつけ加えさせておいていただきます。科学の最先端である脳科学は、心とは脳のはたらきであるとします(心脳同一説)。その考え方にしたがいますと、色は心のなか、すなわち脳のなかにあることになります、と。
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