*デカルトの超絶手品ぁ〜ニャで科学は基礎を形作る第3回
しかしなぜ彼はこのように、存在から、当の存在にほんとうは属していないものとして、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、を取り除くことができたのでしょう。そしてそのあとに残ったものこそほんとうの存在だと言えたのでしょう。俺の短からぬ人生のなかで、存在から、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、を取り除けそうだった瞬間は今のところまったくありません。
俺がここ数十年着ているコートはもとはというとミドリ色でした。染めなおしたいまは藍色をしていますが、コートがミドリ色だった当時、ミドリ色がそのコートに属していたことは疑い得ないものと考えます。それと同じで、火に溶けて蜜蝋はかつての、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、を失いましたが、固体であった当時はまだ、そうして失うに至った、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、が蜜蝋に属していたこともまた厳とした事実であると言えるのではないでしょうか。にもかかわらず、デカルトは、ずっと属しているのではないという理由で、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、を、存在にはほんとうは属していないものとして存在から取り除き、そのあとに残る「どの位置を占めているか」ということしか問題にならない何か(デカルトはこれを延長と呼びました)こそほんとうの存在であるとしました。
不思議です。不思議すぎません?
存在には、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、が属しているというのは、日常では誰にとっても当然のことです。世界広しといえども、西洋哲学や科学に深く従事しているごく少数のひとたちを除けば、70億人のうちのほとんどが、存在には、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、が属していると見て生きていると断言しても切腹を強いられないと思われます。
ではいったいなぜデカルトは存在の、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、を、ほんとうは当の存在に属してはいないものと考えたのでしょうか。
科学も愛好するこの「存在の客観化」というデカルト手品の核心に迫ります。
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