*あたらしい知覚論をください第4回
科学は松の木や蟬の声を、俺が歩み寄っても「これひとつとして違いを見せることのないもの」とするために、つまり存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものから、無応答で在るものへとすり替えるために、いま見たようにして、存在の実際の姿から、存在の、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、という科学にとっての邪魔ものを、ほんとうは当の存在には属していないものとして取り除き、みなさんの心のなかに移し替える。そして、この取り除き作業のあとに残るものをこそ、ほんとうの存在だとする。で、こうした知覚論をぶつ。すなわち、みなさんの脳が、「ほんとうの存在」のコピー像をみなさんの心のなかに作りだしては、そのコピー像に、「ほんとうの存在」には属していない、容姿(色を含む)、音、匂い、味、感触、をつけ加えるのが、見る、聞く、匂う、味わう、触れるといった知覚なのである、と。
こうして、俺たちがあたらしい知覚論を追い求めなければならない理由がいま、明るく見えないものなど何ひとつない白日のもととなった。俺たちは、社会で現在ひろく認知されている科学の知覚論が、存在を別ものにすり替える作業に端を発しているのを、ちょうどいま確認した。こうした不適切なすり替えを事の前提とする科学の知覚論は不適切であると、俺たちは言わざるを得ないように思われる。
いま一度、存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものであると実際どおりに受けとるところからやり直し、科学の説く知覚論にとって代わるあらたな知覚論を手にする必要が俺たちにはあるのではないだろうか。
みなさんはどう思し召すだろう。俺は何かおかしなことを申し上げているだろうか。
あるいはキビしくもこうおっしゃる方もおいでかもしれない。
「知覚論なんてどうだっていいやね。知覚論など不適切であろうがなかろうが、追い求めるほどの値打なんてありゃしないよ、お前さん」
しかし、度がすぎるほど潔癖な俺はおろかにも値打ちなど一切顧みず、ただできるかぎり現実に忠実であろうと突き進むのみである。存在を現実どおりに捉えたがる俺みたいな神経質でぶきっちょなヤロウどもにとってのあたらしい知覚論(視覚論、聴覚論、嗅覚論、味覚論、触感論を総称して知覚論と呼んでいる)を追い求めて俺は以下、この旅を続けていく*1。
前回(第3回)の記事はこちら。
このシリーズ(全8回)の記事一覧はこちら。
*1:2018年10月12日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。