(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

にぎり飯は「存在のすり替え」を観たあとに喰らおう

*あたらしい知覚論をください第3回


 先ほど、俺が歩み寄ると、松の木の姿や蝉の鳴き声(音)が刻一刻と変化するのを確認した。松の木や蟬の声はまさに「他のもの(私の身体など)と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものである。ところが科学は、俺が歩み寄っても、松の木や蟬の声は、これひとつとして違いを見せることはないと考える(引きつづき、松の木が終始占めている位置を変えず、蟬の声も終始音量が一定である場合を例に考える)。つまり松の木や蟬の声を事実に反して、無応答で在るものとする。


 とはいえ、俺が歩み寄れば、刻一刻と松の木がその姿を大きくし、かつその木目をくっきりさせていくというのは断じてウソではない。実際に起こることである。また俺が歩み寄ると、蟬の声がその姿を一瞬ごとに大きくするというのも現に起こることであって、夢のなかの出来事なんかでは決してない。科学は、俺が歩み寄っているあいだ松の木も蟬の声も、「これひとつとして違いを見せることはない」と考えるが、実際のところは絶対にそうなりはしない。


 そこで科学は、松の木や蟬の声が歩み寄ってもこれひとつとして違いを見せることがないものとなるよう、大胆にも現実を修正することにする。


 こんなふうにである。


 まず、松の木に歩み寄っているあいだに俺が目の当たりにする各瞬間の松の木の姿をひとつひとつとりあげ、それらの姿同士のあいだに認められる違いを確認しては、それら違いを、ほんとうは当の松の木には属していないものとして、松の木の実際の姿から取り除き(このとき松の木の実際の姿から取り除かれるのは、松の木の容姿とでも言うべきものである)、俺の心のなかにあるものということにする。すると、その取り除き作業のあとには、俺が歩み寄っても、終始「これひとつとして違いを見せることのないもの」だけが残ることになる。科学はそれを、ほんとうの松の木とすることができるようになる。


 また蟬の声についても同様である。俺が歩み寄っているあいだに耳にする各瞬間の蟬の声の姿を科学はひとつひとつとりあげ、それらの姿同士のあいだにある違いを確認する。で、それら違いを、ほんとうは当の蟬の声には属してはいないものとして、実際の蟬の声の姿から取り除き俺の心のなかにあるものということにする。すると、そのあとには、俺が歩み寄っても、終始「これひとつとして違いを見せることのないもの」だけが残ることになる。科学はそれを、ほんとうの蟬の声とすることができるようになるというわけである(ちなみに、こうして残るのは空気や液体の振動である)*1

つづく


前回(第2回)の記事はこちら。


このシリーズ(全8回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月12日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。