(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

在るとは、共に在ることだ、よなあ?

baseballは科学を批判しつづける第4回


 部屋の片隅に置いてある机に着いておいでのみなさんが、立ち上がられてお振り返りになり、ひとつっきりの扉に向けて一歩一歩、歩み寄って行かれる場合をご想像いただいている。


 当初、机に着いておられるみなさんの背後にはたしかに部屋の扉は存在する。「見えないありよう」とでも言うべき姿で、存在する。ところがみなさんが立ち上がられてお振り返りになると、扉は一転、姿を「見えるありよう」に変えて、みなさんを出迎える。そしてみなさんが以後、扉に近寄って行かれるにつれ、刻一刻とその姿を大きく、かつ、くっきりさせていく。ただし扉がそうして刻一刻と大きくしていくのはあくまで、姿、であって、実寸ではないと申し添えておく。扉は姿を刻一刻と大きくすることで、その実寸を終始一定に保つわけである。


 では、机に着いておられたみなさんが立ち上がられてお振り向きになり、扉に向けて近寄っていかれているあいだ、部屋の扉がこのように姿を「見えないありよう」から「見えるありよう」に変え、さらにはその姿を刻一刻と大きく、かつくっきりさせていくというのはどういうことなのか。


 それは、扉が、みなさんの身体と共に在るにあたってどのようにあるか、という問いに答えるということだと言える(蛇足であるが、みなさんの身体とは最初に申し上げたとおり、「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とが同じ場所を占めてひとつになっているもののことである)。


 いっぽう、みなさんが着いておられた机から立ち上がられてお振り返りになり、部屋の扉に向けて歩み寄って行かれているこの間、みなさんの身体はというと、扉と共に在るにあたってどのようにあるか、という問いに答えていく。まさにみなさんの身体にとって、扉のほうにお振り返りになって歩み寄って行かれるとは、「扉と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えていくことにほからならない。


 机に着いておられたみなさんが立ち上がられてお振り返りになり、扉に向かって歩み寄って行かれるとはこのように、扉が、「みなさんの身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えていくことであると同時に、みなさんの身体のほうも、「扉と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えていくということである。


 とはいえ、扉が一瞬ごとに答えていく問いを、「みなさんの身体と共に在るにあたってどのようにあるか」だと言っているだけでは不十分であるが。 みなさんが立ち上がられてお振り返りになり、扉に向けて歩み寄って行かれているその間、部屋の電灯がチカチカと点灯すれば、部屋の扉はそれに合わせて、みなさんのまえで、薄暗い姿を呈したり、明るい姿に戻ったりするし、近くの道路を巨大トラックが疾駆すれば、ガタピシと音を立てて、床や壁や天井などと一緒に揺れもする。扉が一瞬ごとに答える問いを、「みなさんの身体と共に在るにあたってどのようにあるか」だとは言っていないで、いっそのこと、他と共に在るにあたってどのようにあるか、だと言うほうが断然適切である(「他」のなかには、みなさんの身体のほか、部屋の電灯や、巨大トラック、道路、音、床、壁などが含まれる)。


 また、みなさんの身体についても同じことが言える。先に申し上げたように、机に着いておられたみなさんが立ち上がられてお振り返りになり、扉に向かって歩み寄って行かれているあいだ、みなさんの身体が一瞬ごとに答える問いを、「扉と共に在るにあたってどのようにあるか」だと言っているだけではやはり不十分である。みなさんがお立ち上がりになったり、お振り向きになったり、部屋のなかを歩み行かれたりするとき、みなさんの身体は、単に、「扉と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えているのではない。それこそみなさんの身体はそのとき、「扉、部屋の電灯、床、壁、部屋の外の階段、道路、道、巨大トラック、駅などと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えている。みなさんの身体も、部屋の扉と同じく、「他と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに答えているのだと言うほうが断然適切であるに違いないのである*1

つづく


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*1:2018年8月12日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。