(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

にぎり飯はほっぼり出して、あたらしい視覚論を追おう

*あたらしい知覚論をください第5回


 松の木に歩み寄る例を用いて、あらたな視覚論から探ってみる


 俺が歩み寄ると、松の木の姿は刻一刻と大きくなり、かつその木目も一瞬ごとにくっきりしてくる。このように松の木は、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものである。これまで俺が何度もこう書いてきたのをみなさんは目ダマにタコができるくらいご覧になってきたはずである。


 が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるのは何もこの松の木だけではない。松の木に歩み寄っているあいだ、頭上の青空も、太陽も、雲も、足下の道も、風も、俺の身体もそれぞれ、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答える。ただしいまは、青空や太陽や雲や道や風についてはいったん棚あげし、松の木俺の身体にのみ話を限定して少し考えてみるとしよう。


 俺が歩み寄るにつれ、松の木がその姿を刻一刻と大きくし、かつその木目をくっきりさせていくというのは、松の木が俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えることだと言えるし、また松の木に向かって歩み寄るというこのことはまさにそれこそ、俺の身体が松の木と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えることにほかならないとも言える。俺が歩み寄るにつれ、松の木が刻一刻と姿を変えるというのはこのように、松の木が俺の身体と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えることでもあれば、俺の身体が松の木と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えることでもある。つまり、俺が歩み寄るにつれ、松の木が刻一刻と姿を変えるというのは、松の木と、俺の身体とが、応答し合いながら共に在るということである。


 いま考察にあげるものを、松の木と俺の身体のふたつに限定して、松の木に歩み寄る例について考え、松の木と俺の身体とが、「応答し合いながら共に在る」ことを確認した。実際のところ、俺が松の木に歩み寄っているあいだ、このように「応答し合いながら共に在る」のは、松の木と俺の身体のふたつにとどまらない。先ほどいったん考察を棚上げしたところの、青空も、太陽も、雲も、道も、風たちも、松の木や俺の身体と「応答し合いながら共に在る」。俺が松の木に歩み寄っているあいだ、「応答し合いながら共に在る」もののなかに、青空、太陽、雲、道、風たちも含めて考えるほうが断然、適切である。


 では、ちょうどいま確認したばかりである、松の木俺の身体青空太陽風たちが、「応答し合いながら共に在る」というこのことをしっかり銘記して、ここから、あたらしい視覚論へと踏み入っていこう。


 では、一歩前へ!*1

つづく


前回(第4回)の記事はこちら。


このシリーズ(全8回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年10月12日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。