(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

にぎり飯を喰らうまえに、松の木と蟬の声をめでよう

*あたらしい知覚論をください第2回


 科学の知覚論が生まれるに至る経緯を事のはじめから見ていく。


 俺が歩み寄れば、松の木は刻一刻とその姿を大きくする(話を簡単に進めるために、松の木が終始、占めている位置を変えない場合をいまは例にあげる)。実寸が大きくなると申しているのではない。大きくなるのはあくまで姿である。松の木はそのように姿を大きくすることで実寸を一定に保つわけである。またそのように歩み寄れば、松の木の木目も一瞬ごとにくっきりしてくるし、その間に太陽が雲に隠れれば、松の木は紗をまとったような姿を呈し、かたや太陽が雲間から現れれば、一転、明るい姿を呈するようにもなる。


 松の木はこうして、「他のもの(俺の身体や明かりなど)と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるが、松の木に歩み寄るというこのことはそれこそ、俺の身体にとっても、「他のもの(松の木や道や太陽や雲や歩行者など)と共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えることである。


 けれども、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるのは、何も松の木や俺の身体だけに限られない。存在はすべて、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものである。音や匂いや味などもそれぞれ、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」というこの問いに逐一答えると言える。


 音について言えばこうだ。


 蝉の鳴き声は、俺がその蝉のとまっている木に近づいていけばいくほど、その姿を大きくする(音に姿と言うのはおかしいと思われるかもしれないが)。音量が大きくなると申し上げているのではない。蝉の鳴き声は毎度、音量が一定であるといまの場合は仮定しよう。俺が近寄るにつれ、一瞬ごとに大きくなるのはその音量ではなく、あくまでその姿である。そのように鳴き声(音)は姿を大きくすることで音量を一定に保つわけである。音も、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものである。


 いまごくごく簡単にではあるが、存在が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに逐一答えるものであることを確認した。世界に存在すると言われる70億人のうちのほとんどの方が、存在をこのようなものと見なして生きておいでだろうと俺は考えている。


 しかし科学は違う。科学は存在をそのようなものと考えたことは一時たりともなかったし未来永劫そう考えることも決してない*1

つづく


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*1:2018年10月12日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。