(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

松の木を研究するとはどうすることか(前半)

*身体が機械じゃないのは明らかであるが第11回


 身体は機械ではないこと、またそのことをみなさんよくご存じであることの確認につづきまして、今度は、「身体の物的部分を研究するとはどうすることか確認します


 何度も申しております。松の木に歩み寄るとは、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、松の木、太陽、雲、風、音などや、過去体験記憶、未来体験予想らが、いまこの瞬間まで「どのように応答し合いながら共に在ったか」、またいまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」、把握に努めながら歩くことです、と。こうした把握こそ、日々みなさんがあたりまえのようにいろんな局面で、朝メシまえといった感じでおやりになる「状況把握」であるとのことでした。「身体の物的部分を研究するとはまさにこの状況把握を突きつめることだと言えるのではないでしょうか。


 なぜそう言えるのか、いまから見ていきます。


 みなさん、俺のことを松の木研究家とご想像ください(実際は違いますが)。俺が松の木の研究と称して、先ほどからずっと、松の木に歩み寄ったかと思うと遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりして、松の木につぶさに着目しているものとお考えください。


 俺はそのように松の木につぶさに着目する(松の木を研究する)ことでいったい何をしているのでしょうか


 松の木に歩み寄ったかと思うと遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりして、松の木につぶさに着目する(松の木を研究する)とは、松の木の姿が、先ほどからどのようになってきたかまたこれからどのようになっていくか記憶と予想を同時にしながら、歩み寄ったり、遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりすることです。これはすなわち、松の木が、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに、先ほどから逐一どう答えてきたか、またこれから逐一どう答えていくか、把握に努めながら、松の木に歩み寄ったり、遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりすることだと言い換えられますが、これはさらに細かく言えば、松の木が、「身体の物的部分」、「身体の感覚部分」、太陽、雲、ペンライトの光、風、音、匂いなどや、過去体験記憶、未来体験予想らと、いまこの瞬間まで「どのように応答し合いながら共に在ったか」、またいまこの瞬間から「どのように応答し合いながら共に在るか」、把握に努めながら、歩み寄ったり、遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりすることだと言えます。


 先に申しましたとおり、こうした把握こそ、みなさんが「状況把握」とお呼びになって、日々あたりまえのようにいろんな局面で、朝メシまえといった感じでおやりになるものでした。


 以上から、松の木に歩み寄ったかと思うと遠ざかったり、その周りをぐるぐる回ったり、ペンライトを当てて見たり、匂いを嗅いだり、耳を押し当てたりして、松の木につぶさに着目する(松の木を研究する)とは松の木だけに着目することでは決してなく、「状況把握を突きつめることだと言えるのではないでしょうか*1

つづく


前回(第10回)の記事はこちら。


このシリーズ(全17回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年9月25日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。