*心はいかにして科学から生まれたか第5回
「絵の存在否定」という不適切な操作をみずからの出発点に置く科学は、いまこの瞬間、私が目の当たりにしている松の木の姿を、私の前方数十メートルのところにあるのではないことにする。そこには、見ることも触れることもできない「ほんとうの松の木」こそがあることにする。そして、私の前方数十メートルのところにあるのではないことにした、私が現にその瞬間、目の当たりにしている松の木の姿に行き場(在り場?)を与えるために、ありもしない心なるものを想定し、その松の木の姿をその心のなかの像であることにする。
この要領で科学は、私が目の当たりにする松の木の姿のみならず、私が体験するものはすべて、すなわち、私が新幹線の窓外に目の当たりにする富士山の姿も、私が聞く廊下の足音も、私が嗅ぐキッチンのレモンの香りも、私の口のなかいっぱいに広がるコーヒーの味も、ふわふわしたセーターの手触りもみな、私の心のなかにある像にすぎないとする。
で、私の心のなかにある像は、私が空想しているもの(例えば頭が三つあるゴジラの姿など)以外はみな、私の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの存在」についての情報だとする。私が目の当たりにする松の木や富士山の姿、聞く足音、嗅ぐレモンの香り、味わうコーヒーの味、ふわふわのセーターの手触りそれぞれを、私の心の外に実在する、見ることも触れることもできない、「ほんとうの松の木」、「ほんとうの富士山」、廊下の空気の振動、レモンの匂い分子、コーヒーの味物質、「ほんとうのセーター」についての情報であることにする。
「身体の物的部分」や「身体の感覚部分」についても同様である。
私がいまこの瞬間、自分自身の左手を自分の目の前にかざしているとする。すると、その瞬間に私が現に目の当たりにしている「左手の物的部分」の姿とその瞬間の「左手の感覚部分」とは、そのとき私の鼻先数十センチメートルのところで同じ場所を占めてひとつになっていることになる。が、「絵の存在否定」という不適切な操作をみずからの出発点に置き、私が体験するものをすべて私の心のなかの像であることにする科学は、その「左手の物的部分」の姿と「左手の感覚部分」とを共に、私の鼻先数十センチメートルのところにあるものではなく、私の心のなかにある像であることにする。私の鼻先数十センチメートルの場所には、見ることも触れることもできない「ほんとうの左手の物的部分」*1こそがあることにする。私がその瞬間、現に目の当たりにしている「左手の物的部分」の姿と、その瞬間の「左手の感覚部分」とは共に、私の心の外に実在する、見ることも触れることもできないこの「ほんとうの左手の物的部分」についての情報だとするわけである。
こうして科学にとって左手とは、私の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの左手の物的部分」ことであって、そこに「左手の感覚部分」は含まれないということになる(科学にとって「左手の感覚部分」は私の心のなかにある像にすぎない)。
引いては身体とは、私の心の外に実在する、見ることも触れることもできない「ほんとうの身体の物的部分」*2のことであって、そこに「身体の感覚部分」は含まれないということになる(この「ほんとうの身体の物的部分」を科学はよく身体機械と呼んでいる。以後、「身体機械」というこの用語を代用する)。
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ところが身体がそのように心の外に実在する「身体機械」のことであって、見ることや触れることをはじめ、じかに関わることは一切できないとなると、私とは心であるということにおのずとならざるを得なくなる。
実際のところ、みなさんはふだんどなたも、ご自身の鼻の頭を差して、「私です」とか「俺です」とおっしゃったり、photoや動画に映ったご自身の姿を、指や目顔やアゴなどで指して、「これ私です」とか「あ、俺です」とおっしゃったりなさる。果してそのときみなさんの指や目顔やアゴの先にあるのは、みなさんの心だろうか。
めっそうもない。
そこにあるのはみなさんの姿である。そこでみなさんの「身体の物的部分」(の姿)と「身体の感覚部分」とが同じ場所を占めてひとつになっている。
しかし、「絵の存在否定」という不適切な操作をみずからの出発点に置き、私が体験するものをすべて、私の心のなかの像であることにする科学の手にかかると、先に見たとおり、私とは心であることになる。私はそうして心なるものにまで縮小されることになる。しかも心というのは前回見たように、科学が「絵の存在否定」という不適切な操作をみずからの出発点に置いたがために説明に持ち出さざるを得なくなった架空の存在にすぎなかった。
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