*心はいかにして科学から生まれたか第2回
科学が、「絵の存在否定」という不適切な操作をみずからの出発点とした結果、ありもしない心という存在を想定することになった顛末を、これから見ていく。
最初に身体について再確認し、そのあと「絵の存在否定」というこの不適切な操作について復習する。
さっそくはじめる。
みなさんどなたにも身体感覚があおりである。それは頭の頂きから手足の末端までひと連なりになった感覚とでも言えるだろうか。
いっぽう、みなさんの身体感覚があおりの場所には、みなさんの身体の物的部分とでも言うべきものも存在する。こちらのほうはさしずめ、頭の頂きから手足の末端までひとつらなりになった物体とでもいったところか。
いま身体について、身体感覚と「身体の物的部分」のふたつを挙げた。「身体の物的部分」という後者の呼びかたに合わせて、身体感覚をも身体の感覚部分と呼ぶとすれば、これら「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とが同じ場所を占めてひとつになっているものこそが、身体である。身体にはこのように、「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」という二部分がある(同じ場所を占めているもの同士を、別部分と表現するのは違和感があるけれども)。
さて、身体について再確認が済んだここからは、「絵の存在否定」という不適切な操作を復習する。
「絵の存在否定」と言うとき、その絵という言葉を、特別な意味合いで使う。絵は二次元に描かれるものであるが、しばしば三次元でもある。ある絵では、カンバスという平面の向こうに三次元が広がり、そこでふたりの男がデーブルに着いてカード・ゲームをしているし、ふだん私たちは、ひとの仕草や風景といった三次元の様子を一枚の絵に見立て、「絵になる」と言ったりもする。「大谷翔平選手が一塁ベースを回ったところで右腕をL字型にあげる後ろ姿は絵になる」といったふうにである。
そこで、絵という言葉が三次元にも用いることができるこの点を利用し、いまこの一瞬に私が体験している世界のありよう全体(三次元)をひとつの絵と見て、世界絵と名づけることにする*1。
前回(第1回)の記事はこちら。
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*1:2018年7月31日付記。「絵の存在否定」について語るのに、「世界絵」なんて言い出すのはいかがなものかと、いまとなれば首を傾げざるを得ませんけれども、手を入れず、当時のままにしておきます。