(新)Nothing happens to me.

科学はボタンをかけ違えたまま来たのではないでしょうか。

心が生まれたきっかけは遠いむかし

心はいかにして科学から生まれたか第1回

「科学の身体研究からすっぽりぬけ落ちている大事なもの」と題した文章のchapter 1で、身体が機械ではないこと、およびそのことをみなさんどなたも実によくご存じであることを確認した。そしてそのchapter2では、にもかかわらずなぜ科学が身体を機械とするのかを確認した。科学は事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為し、その結果、身体を機械と考えるに至るというわけだった。


「絵の存在否定」というこの不適切な操作こそ、科学の出発点である。この操作が科学の出発点となった経緯はおそらくこうだったろうと思われる。


 科学の大先駆者であるデカルトがこの不適切な操作から歩みはじめ(「デカルトの超絶てじなぁ~ニャで科学は基礎を形づくる」と題した文章でそのことを確認した)、未踏の地に道をつぎつぎと切り開いていったが、気づいてみるといつの間にか、科学はその道を、デカルト亡きあと邁進していた。そうして知らず知らずのうちに「絵の存在否定」という不適切な操作をみずからの出発点としていた、ということではないだろうか。


「絵の存在否定」というこの不適切な操作は、見るものみな石に変えるメドゥーサの眼力もかくやあらむ、世界、存在、関係、身体、身体感覚、行動、感情、快さ・苦しさなど、ありとあらゆるものを別ものにすり替えるきっかけである。chapter2ではそのうちから、存在、身体、身体感覚が実際とは別のものにすり替えられる次第を見たけれども、ところでそのとき、みなさんはお覚えになっているだろうか、流星のごとく、というものがどこからともなく、たち現れてきたのを。


 みなさんは、意識とか心といった言葉をお見かけになったりお聞きになったりする度に、いったい心とは何のことなのだろう、と疑問をお覚えになりはしないだろうか。いやきっとみなさんにも、自分のどこがその心とやらに当たるのだろう、とウンウンうなりながらアレコレ考え悩まれたご経験はあおりに違いない。


 果してみなさんがその疑問にたいしお出しになった回答は何か。


 不肖私はというと、みなさん同様フラフラになるまで考え悩んだあげく、つぎのような結論に到達した。


 心というのは、「絵の存在否定」という不適切な操作をみずからの出発にもつ科学が、説明のツジツマを強引に合わせるために想定した架空の存在にすぎない、と。


 以下、心という架空の存在が生まれた経緯を、chapter2の復習をかねて確認する。よろしくお願い申し上げる次第だ。

つづく


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