(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

今回語り直すのは「存在の客観化」という名のエゲツない作業

*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第1回


 先日、科学を科学たらしめる、おどろくべき科学の出発点についてひっしのパッチで語り直した。「科学の出発点をナミダナミダで語り直す*1」という(いかがわしい)タイトルで。科学が事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなすのを、恐怖にひざをガクガクいわせながら確認した次第である。


 さて、本日またぞろ僕が酒くさい口をひらいたのは他でもない。語り直したいものがまだ残っているということである。


 科学はその「絵の存在否定」をやったあと、存在を別ものにすり替える。そのすり替え作業を、ええカッコウしいの僕はかつて、存在の客観化と名づけた。その作業過程をこれから、みなさんに(ナマ?)あたたかく見守っていただいているなか、語り直そうというわけである。


 えっ、その存在のすり替えで、いったい何がどうなるかって? 


 いきなりそんな・・・・・・う〜ん、人間がまるっきり理解できなくなる、とでもまずはお答えしておこうか。


 そして、まあそうお焦りにならず、ゆっくり最初っからお話させていただきたいとお願い申し上げるとしよう。


 もうすでに申し上げるのは2,3度目だが、科学は事のはじめに、「絵の存在否定」という不適切な操作をなす。


 すると、信じられないことが起こる。


 僕が現に目の当たりにしているみなさんの姿一転、僕の目のまえにあるものではなく、僕の心のなかにある映像であることになる。僕が現に聞いているみなさんの美声も、僕の心のなかで響いている像であることになるし、僕が片手にもっている透明な容器からしているうっとりする香りも、その容器の辺りでではなく、僕の心のなかですることに、また僕がさっきからグビグビとカッくらっているそのワンカップ大関の味も、僕の口のなかなんてとんでもない、僕の心のなかに広がる像であることになる。


 僕の頭のてっぺんちょからつま先までひと連なりになっている身体感覚も、僕の頭や首や胴体や手足があるところにではなく、僕の心のなかにあることになる。


 科学はこのように「絵の存在否定」という不適切な操作を事のはじめになして僕が体験しているもの一切を、僕の心のなかにある像であることにする。で、その直後に「存在の客観化」という作業をやり、僕の心の外にホントウに実在しているのは、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」だけであるということにする


 みなさんが、酒くさい僕と一緒にご確認になっていくのは、この存在すり替え作業のつまびらかな顛末である*2

つづく


このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。

 

*1:2018年第1作

*2:2018年6月23日に、内容はそのままで表現を一部修正しました。