(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

科学が科学らしい産声を生まれるまえにあげたとき①

*科学の出発点をナミダナミダで語り直す第8回

科学が事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をどのように為したか、拙い表現力で必死に説明してきた僕さん。最後の力をふり絞って、口をアワアワさせます。


 科学が事のはじめに「絵の存在否定」と僕が名づけた不適切な操作を、「いまこの瞬間に僕が体験している世界のありよう全体(三次元の広がり)」の隅々にまで為す次第をご覧いただいた。その操作の結果、僕が体験するもの一切を科学が、僕の心のなかにある像であることにし、心の外にはその代わりに「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」のみ実在すると考えるに至ったのを確認した。このように僕がする体験を根底からごっそり別ものにすり替えておいてから、科学は、存在とは何か、音とは何か、匂いとは、味とは、世界とは、身体とは、行動とは、感情とは、快さ苦しさとは、健康とは、病気とは、医学とは、人間理解とは何かとそれぞれ定義づけていくとのことだった。


 ひょっとするといまみなさんのなかには、「そらあ、科学の言うことをむつかしいと感じるはずやわ、なんかズルイと思うわ、あたし」とおっしゃりたいのをグッと堪えておられるかたもいらっしゃるかもしれない。


 いや、いらっしゃらないか・・・・・・こんな拙い表現力じゃしかたない・・・・・・


 ただ気をとり直してココで最後にひとつ、つけ加えておきたい。あくまでこの絵の存在否定という不適切な操作を実際にやってのけたのはデカルトであって、デカルトがその操作のあとにやった各種定義づけに科学はひょこんと乗っかっただけと僕には思われる、と。


「ほんとにデカルトは『絵の存在否定』なんて操作やったですか」とみなさん、疑問にお思いになる?


 デカルトが本に記した彼の思索道(特に『哲学原理』が詳しい)は、実にこの絵の存在否定からはじまっているとしか僕には見えない(僕の読解力が悪いだけ?)。彼が本のなかで語りはじめるのは、「絵の存在否定」をちょうど済ませた直後からだが。


 簡単にこのことを確認してからお別れ申し上げよう。

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)

 



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