*科学の出発点をナミダナミダで語り直す第7回
科学が「絵の存在否定」という不適切な操作を為し、僕さんの左手を「左手機械」、すなわち「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」にすぎないものにすり替える次第を一生懸命説明したあと、僕さんは言います。
左手に限定して進めた話しを身体全体に広げてみよう。
身体とはみなさんや僕にとって、同じ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とを合わせたもののことだった。身体にはこのように「身体の感覚部分」が含まれる。しかし身体にも「絵の存在否定」という不適切な操作を為すのを決して忘れない科学は、左手のみならず、身体全体を心の外に実在する「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素の集まり」にすぎないものと考え(前記5.存在のすり替え)、身体のうちから「身体の感覚部分」を除外する。しかも身体をそうしてただの物体であることにしたあとさらに、時計や掃除機と同じ機械と見なす。実に科学は身体をこのように機械と見、しばしば「身体機械」と呼ぶが、ここではその名をそっくり借りよう。科学は、みなさんの心の外に実在する「身体機械」各所についての情報が、神経を伝ってみなさんの脳に集まり、そこで映像と感覚に変換されるとし、前者の映像を、みなさんが現にその瞬間ご覧になっている「身体の物的部分」の姿、後者の感覚を、現にその瞬間みなさんがお感じになっている「身体の感覚部分」とする(前記6.知覚=情報伝達変換論)。
「身体の感覚部分」を、心の外に実在する「身体機械」についての、心のなかにやってきた情報にすぎないとするわけである。
いまご覧になったように科学の手にかかると、身体は機械であることになるが、みなさんよくご存じのように身体は決して機械ではない。何度も繰り返させていただくけれども、身体とは、同じ場所を占めている「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とを合わせたもののことであって、身体には「身体の感覚部分」が含まれる。身体は決してただの物体ではない。機械でないのはなおさらだ。ところが事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為す科学には、身体は機械であるとしか考えられない。身体を機械とする見方にのっとって、行動とは何か、感情とは何か、快さ苦しさとは、健康とは、病気とは、医学とは、人間理解とは何か、を科学はそれぞれ定義づけていく。
「そんなことしてダイジョウブ? てか、激ヤバなアヤマチを犯しちゃうハメに陥ったりしない?」とみなさんご心配にならずにはいらっしゃれないだろう。
実際、昨年2017年にそのなかから、科学の、健康、病気、医学、人間理解、の定義づけについて考察したところ、身体を機械とする見方にもとづいて定義づけられた健康と病気の区別の付けかたがまさに不当差別以外の何ものでもないこと、そのように定義づけられた医学治療にはマジヤバな落とし穴があること、また科学にはなっから人間理解を頑なに拒絶しているところがあること、がつぎつぎと明らかになった(ちなみに本年2018年は、行動、感情、快さ苦しさ、を科学がどう定義づけるか確認する。生きていれば、だが)。
さて、事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作を為す科学が、身体、すなわち同じ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とを合わせたものを、「身体機械」と心、というひと組にすり替える経緯を確認した。
科学は当初、後者のペアの片割れである、心、を非物質として扱っていたが、ここにきて「身体機械」の一部と説くに至っていることについて、つぎの話題に移るまえにひと言、触れておきたい。
現代科学は心を、「身体機械」の一部分である脳の物質的活動(脳のはたらき)と考える(心脳同一説)。
いまや科学にとって人間は丸ごとひとつが機械である。
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