*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第17回
先刻こう申し上げた。
事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、それに引きつづいて「存在の客観化」という存在と関係のすり替え作業をやり、この世に実在するのは、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」だけということにする。
身体はみなさんにとって、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とを合わせたもののことだけど、科学はこの「存在の客観化」作業をやって、身体をも元素の集まりにすぎないことにし、時計や掃除機とおなじく機械であると見て、「身体機械」とよんだりする(「身体の感覚部分」を心のなかにある像であることにする)。
そして、身体(身体機械)に出来事は、「身体の感覚部分」の関与無しに起こるとする。
しかし、僕が柿の木に歩みよっている場面をもちいて先に確認しておいたように、僕の「身体の物的部分」と「身体の感覚部分」とは、「応答し合いながら共に在る」(それらふたつと「応答し合いながら共に在る」ものは他にも挙げられるが)*1。
まさに身体に出来事は「身体の感覚部分」の関与のもと起こる。
科学のように、身体(身体機械)に出来事は、「身体の感覚部分」の関与無しに起こると考えるのにみなさん、とてつもない無理をお感じにならずにはいらっしゃれないだろう、と。
でも、そんなふうに申し上げていると、つぎのような反論がどこからともなくあがってくるんじゃない? いやいや、現代科学も、身体に出来事が「身体の感覚部分」の関与のもと起こると考えている、って。
こういうことである*2。
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