(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

身体を、脳に操縦された機械とする科学の見解はザンネンなものだ、よなあ?

baseballは科学を批判しつづける第9回


 マウンドからボールを投げるとき、大谷選手の「身体の物的部分」、大谷選手の「身体の感覚部分」、大谷選手の目の当たりにする景色や聞く音、大谷選手自身の過去体験記憶や未来体験予想などが、「応答し合いながら共に在る」のを、みなさんテレビのプロ野球ライブ中継でまざまざと目撃なさる。まさに大谷選手の「身体の物的部分で一連の物質的出来事は、大谷選手の「身体の感覚部分」、大谷選手の目の当たりにしている景色や聞いている音、大谷選手自身の過去体験記憶や未来体験予想などの関与のもと起こる


 ところが科学は、先にも申し上げたけれども、マウンドからボールを投げるとき、大谷選手の「身体の物的部分」で一連の物質的出来事が起こるのに関与するものとしては、「身体の物的部分のうちにある物質だけしかあげない。ほかにあげるものがあるとしても、それは、「身体の物的部分」の外からやってきて、「身体の物的部分」の表面に接するか、もしくは内部に入ってくるかする物質だけである(科学が環境因子と呼ぶのはこうした物質にすぎない)。大谷選手の「身体の物的部分」で物質的出来事が起こるのに、大谷選手の「身体の感覚部分」、大谷選手の目の当たりにしている景色や聞いている音、大谷選手自身の過去体験記憶や未来体験予想などが関与するのを認めない。科学はこのように大谷選手の「身体の物的部分」を、機械と見る(身体機械論)。


 そして、「身体の物的部分」で起こる一連の物質的出来事を、「身体の物的部分のうちの一点のせいにする(この一点を科学は原因という名で呼ぶ)。すなわちその一点が、「身体の物的部分」各所をコントロールして、そうした物質的出来事を引き起こすことにする。ボールを投げるときに大谷選手の「身体の物的部分」に起こる一連の動きを、反射運動ととるなら、脊髄という一点がコントロールしてボールを投げさせることにし、随意運動(反射ではない運動)ととるなら、大谷選手の脳という一点が大谷選手の「身体の物的部分」各所をコントロールしてそのようにボールを投げさせることにする。


 しかし、ここまで見てきたとおり、ボールを投げるとき、大谷選手の「身体の物的部分」で一連の物質的出来事が起こるのに関与するのは、「身体の物的部分」のうちの物質だけだなどと、テレビのプロ野球ライブ中継をご覧のみなさんは決してお思いにならない。実に「身体の物的部分を機械と考えることは不適切である。


 それに、「身体の物的部分」に起こる物質的出来事を、脳もしくは脊髄といった一点のせいにすることもまた不適切である(物質的出来事を一点のせいにするこうした見方については「科学の身体研究からぬけ落ちている大事なもの」のchapter4で確認する予定である)。実績を示すことをもって科学の基礎をかたち作ってきた物理学や化学はむしろ物質的出来事を一点のせいにするそうした短絡的な見方を斥けてきたのではなかったか。物質的出来事を的確に把握するためには、当の出来事が起こるのに関与する存在をできる限り数多くあげて、配慮する必要があると示してきたのではなかったか。そのように、出来事というのは一点のせいにすることができるほど単純なものではないという現実をまざまざと私たちに知らしめてきたのではなかったか。脳あるいは脊髄が、「身体の物的部分」各所をコントロールすると解するのは、物理学や化学がかたち作ってきた出来事の見方を否定する短絡な見方をとるところに逆戻りすることなのではないだろうか


 科学は、ボールを投げるといった運動をするときのみならず、話すときや、眠る、決意する、記憶する、計画を立てるときなどに「身体の物的部分」で起こる物質的出来事などをも、脳という一点によって引き起こされるものとし、脳が、運動、言語活動、睡眠、意思、記憶、などを司っている(コントロール)と言って、脳をちいさな人間に見立てる(この擬人化については後述する)。そうして、「身体の物的部分」を、脳というちいさな人間もどきによってコントロールされる機械として説明するが、そうした「身体の物的部分」の見方は、少なくとも、「身体の物的部分を機械とする点と、「身体の物的部分」に起こる物質的出来事を一点のせいにする点で不適切であると思われるのである*1

つづく


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*1:内容はそのままで表現のみ一部、2018年9月3日に修正しました。