*baseballは科学を批判しつづける第13回
みなさんには、大谷選手の身体だけではなく、ご自身の身体についてもお考えいただいた。部屋の片隅に置いてある机に着いておられたところから、立ち上がられてお振り返りになり、部屋のひとつっきりしかない扉に向けて歩み寄って行かれる場面をご想像いただき、みなさんの「身体の物的部分」、みなさんの「身体の感覚部分」、部屋の扉、床、壁、部屋の外の階段、建物の外の道路、巨大トラック、音などや、みなさんご自身の過去体験記憶、未来体験予想らが、「応答し合いながら共に在る」のをご確認いただいた。最後に、これがどういうことかも、ここで一緒にご確認いただくことにする*1。
部屋の片隅に置いてある机に着いておられたみなさんが、立ち上がられてお振り返りになり、部屋の扉に向けて歩み寄って行かれているあいだのある一瞬(どの一瞬でも可)をまずお考えいただきたい。その一瞬みなさんは、その瞬間(現在)まで、ご自分がどのように動いてこられたか記憶なさっている。また、その瞬間(現在)から、ご自分がどのように動いていかれるかを予想してもおられる。
このようにみなさんは部屋の片隅に置いてある机に着いておられたところから、立ち上がられてお振り返りになり、部屋の扉に向けて歩み寄って行かれているあいだ、その瞬間(現在)までご自分がどのように動いてこられ、その瞬間(現在)からご自分がどのように動いていかれるか、終始、把握にお努めになる。すなわち、みなさんの「身体の物的部分」、みなさんの「身体の感覚部分」、部屋の扉、床、壁、部屋の外の階段、建物の外の道路、巨大トラック、音などや、みなさんご自身の過去体験記憶、未来体験予想らが、その瞬間(現在)まで、共に在るにあたってどのように応答し合ってきて、その瞬間(現在)から、共に在るにあたってどのように応答し合っていくか、終始、把握にお努めになる、というわけである。
こうした把握こそ、ふだんみなさんが日々いろんな局面でおやりになる「状況把握」なるものである。いやむしろ、程度の差はあれ、「状況把握」をなさらない瞬間などみなさんにはあおりではないとまで言えるのではないだろうか。道や建物のなかをお歩きになるとき、車や自転車をお走らせになるとき、工作(料理や大工作業など)をなさるときなど、つねにみなさんは「状況把握」にお努めになる。そうしてふだんみなさんは、「身体の物的部分」で物質的出来事が起こるのに関与するのは「身体の物的部分」のうちの物質だけだとする、科学の身体機械論を、身をもって真っ向から否定なさっているのである。「身体の物的部分」を機械と考えれば、一転、「状況把握」をする必要はないということになって、研究者は楽ができるし、私みたいに「状況把握」がニガテな者でも、「身体の物的部分」を研究できることにはなるけれども。
以上、「身体が機械じゃないのは明らかであるが」*2と題して先日書いた文章についてまとめた。その文章の主題は冒頭でも申し上げたとおり、身体が機械ではないのを確認することにあった。その文章のまとめを記したここでも、その文章とは違うやりかたでではあるが、身体が機械ではないこと、みなさんがそのことを実によくご存じであること、身体を研究するとは「状況把握」を突きつめることであること、身体を機械と見る科学の説明は不適切であることを確かめた。「身体の物的部分」が機械ではないことはどなたにとっても明々白々である。ボールを投げる大谷選手を見て、機械がボールを投げていると思う人間などどこにもいない。
科学者以外には。
では、「身体の物的部分」が機械ではないことは誰にとってもこんなに明々白々であるのに、なぜ科学は「身体の物的部分」を機械として説明するのか。
それを、「科学にはなぜ身体が機械とおもえるのか*3」で見ていくという次第なのである。
科学が身体を機械とするに至る事の発端は、絵の存在否定という操作にある*4。
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