*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第16回
そもそもみなさんにとって身体とは何か。
まえのほうで確認しておいたように、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とを合わせたもののことである。身体のうちに「身体の感覚部分」は含まれる*1。
でも、科学は「存在の客観化」という作業によって、この世に実在するのは、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」だけであるとする。
身体もこの科学の手にかかると、そうした元素の集まりにすぎないことになる。身体には「身体の感覚部分」が一転、含まれないことになる(科学は「身体の感覚部分」を心のなかにある像と考える)。
科学はこのように身体を、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とを合わせたもの、から、元素の集まりにすぎないものにすり替え、柿の木や石ころなどとまったくおなじ単なる物体であると考える。
さらには、時計や掃除機とおなじく機械であると見て、ときに「身体機械」と呼んだりする。
そして、身体(身体機械)に出来事は、「身体の感覚部分」の関与無しに起こるとするわけである。
だけどみなさん、テニスボールを追いかけておられるときや、卓上にある赤カブにお箸を延ばしておられるとき、お身体が「身体の感覚部分」の関与無しに動いているとお考えになる?
みなさんが羽生結弦選手について夢中でおしゃべりになっているときや、つり革をもちながらゆっくりと舟をこいでおられるとき、みなさんの身体が「身体の感覚部分」の関与無しに動いているとおっしゃれる?
みなさん、ご想起いただけるだろうか。僕が柿の木に歩みよっているときにその右足がどんなふうに、離陸、前方移動、着陸、をくり返しているかご確認くださったときのことを*2。
僕の「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とは、「応答し合いながら共に在った」んじゃなかったか(もちろん、「応答し合いながら共に在る」のは、それらふたつだけじゃなく、柿の木や太陽や雲や道や他人の身体や音やもだということだったけど)。
身体に出来事は、「身体の感覚部分」の関与のもと起こっていたんじゃなかったか。
「存在の客観化」という作業で、この世に実在するものを元素だけであることにする科学の方法にはもともと、身体にもちいることはできないという限界があったんじゃないかとみなさん、お考えにならずにはいらっしゃれないように思われる*3。
後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。
- 変更前:09:00
- 変更後:09:05
ひとつまえの記事(①)はこちら。
前回(第15回)の記事はこちら。
このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。