*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第17回
ながらく心は、非物質と考えられてきたけど、現代科学はもはや心とは脳(の物質的活動)のことだと考える。それに合わせて「身体の感覚部分」のことも非物質ではなく、物質的活動であるとする。「身体機械」各所についての情報が、当の場所から電気信号のかたちで神経をつたい、脳にやってくるという物質的活動のことであると、「身体の感覚部分」を考える。で、身体(身体機械)に起こるいろんな物質的出来事を、そうした電気信号の伝達に関連づけて説明すれば、その物質的出来事が「身体の感覚部分」の関与のもとどのように起こっているか明らかにしたことになる、とするというわけである。
しかも、「身体の感覚部分」はやっぱり感覚であって、そうした電気的興奮の連鎖のことではないと僕が抗議しても、現代科学はつぎのように主張する。
仮に「身体の感覚部分」が電気的興奮の連鎖のことではないとしても、「身体の感覚部分」がどんな感じかということと、そうした電気信号の伝達のありかたとは内容的に一対一の対応を示していて、電気信号の伝達がどんなものかわかりさえすれば、「身体の感覚部分」がどんな感じのものかもすぐわかる。結局、その電気信号の伝達さえ説明のなかに入れておけば、自動的に「身体の感覚部分」を考慮に入れていることになるのである、と。
けど、ほんとうに「身体の感覚部分」とその電気的興奮の連鎖とはそんな一対一の対応をしている?
僕が柿の木に歩みよっている場面をご想像くださったみなさんは、僕の「身体の感覚部分」が、僕の脳、神経、臓器、血液、骨、その他の「身体の物的部分」、太陽、雲、道、他人の身体、音らと、「応答し合いながら共に在る」のをご存知である。僕の「身体の感覚部分」を把握するには実に「状況把握」が必要である。「身体の感覚部分」しか見ないとか、電気的興奮の連鎖しか見ないというのでは、当の「身体の感覚部分」は把握できない。
僕の「身体の感覚部分」を捉えるのに、神経をつたって脳に連鎖する電気的興奮の連鎖だけを見ていれば十分であるという保証などまったくもってどこにもない。
身体に起こる物質的出来事を、神経に伝わる電気的興奮の連鎖にからめて説明しても、身体に当の物質的出来事が、「身体の感覚部分」の関与のもとどのように起こっているか、明らかにしたことにはならないと思われる。
事のはじめに「絵の存在否定」、それにつづいて「存在の客観化」をやり、この世に実在するのは元素だけであるということにする科学の手法には実はハナっから限界があって、物体や音やについて研究する物理学や化学の範囲内では有効でも、身体については、つまり、生き物についてはそもそも通用しないということだったんじゃないかと、やっぱりみなさん頭を悩まさずにはいらっしゃれないんじゃないだろうか*1?
後日、配信時刻を以下のとおり変更しました。
- 変更前:07:00
- 変更後:07:05
ひとつまえの記事(①)はこちら。
前回(第16回)の記事はこちら。
このシリーズ(全18回)の記事一覧はこちら。
*1:2018年10月29日に、内容はそのままで表現のみ一部修正しました。