*科学が存在をすり替えるのをモノカゲから見なおす第18回
さて、みなさんにお別れ申し上げる頃合いとなった。
僕は酒臭い息をはきながら、実に長々とおしゃべりしてきた。みなさん、僕の拙い表現を適宜、ご自分流に補ったりなさりながら、ここまでガマン強くお話をお聞きくださってきて、もう疲労困憊でいらっしゃることだろう。
かく申す僕も、もはやワンカップ大関のことしか考えられないようになっている。「長いあいだお付き合いくださり、感謝の念でいっぱいである、ぜひまたどこかでお目にかかりたい」との言葉がいまにも口からポロリとこぼれ落ちそうなのを、かなりまえからグッとこらえてきた。
ああしみじみと思い返される。
事のはじめに「絵の存在否定」という不適切な操作をなす科学は、それに引きつづいて、「存在の客観化」をやるとのことだった。それは、柿の木を、音を、匂いを、味を、身体を、別ものにすり替える作業だった。すなわち存在を、「他のものと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに一瞬ごとに答える相対的なものから、無応答で在るもの(客観的なもの・絶対的なもの)にすり替える作業だった。
で、そのすり替え作業の果て、この世には、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」しか実在しないことになる、ということだった。
そうそう、最後には、この無神経きわまりない僕がみなさんの胸中を推し量るようにすらなっていたものである。存在(と関係)をこうした別ものにすり替えてから研究する科学の方法にはもともと限界があって、物理学や化学の範囲では有効でも、身体(生き物)には通用しないということがあるんじゃないかとの暗い懸念が、みなさんの胸のなかいっぱいに広がっているんじゃないだろうかって。
さあ、そろそろ僕もここいらでつぎのひと言を、みなさんへのお暇乞いの言葉とすり替えさせていただくこととしよう。
科学は「存在の客観化」という作業をやって、身体をも、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物的部分」とを合わせたものから、「身体機械」にすり替える。だけど身体をそんなふうに「身体機械」にすり替えてしまうと、快さや苦しさがいったい何であるか理解できなくなるのではないかと思われる。快さや苦しさについて不適切な理論を説いて、快さや苦しさの理解に失敗しつづけることになるんじゃないだろうか、と(行動や感情も理解できなくなるだろうが)。
しかもこの快さや苦しさというのが、理解できなくてもかまわないようなツマラナイものでは決してないと来ている。実際、みなさんは、大金を積んででも、快さを手に入れようとか苦しさを避けようとかなさるほど、快さをいっつも大事にしておいでである。
そうじゃない?
みなさんが初詣でおサイセン箱に札束をお投げ入れになりながら、改まった気持ちで「健康でいられますように」とか「健康になりますように」と祈念なさるというのは、いったい何を願っておられるということ?
それはおおざっぱに言えば、「苦しまないでいられますように」とか「苦しまないでいられるようになりますように」とそれぞれお望みであるということなんじゃない?
みなさんにとってご健康とは、苦しくない状態がつづくこと、ご病気とは苦しい状態が引きつづくことなんじゃない?
みなさんは医療に、苦しまないでいられるようになる手助けをすることをお求めになるんじゃないだろうか?
じゃあ、快さや苦しさが何であるか科学が理解できないとすれば、そんなのは大したことじゃないなどとおっしゃってお済ませになることはちょっとおできにならないんじゃないか、と僕なんかはご推測するが・・・・・・
2018年後半は、快さや苦しさが何であるか確認しようと考えている*1*2。
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