*科学するほど人間理解から遠ざかる第2回
西洋学問ではこれまで、快さ苦しさは何であるか理解されてこなかったと最初に申し上げ、そのことは、健康や病気についてすこし考えてみるだけでもすぐ明らかになると申し添えました。
本題に入るまえにもうしばらくグダグダ言わせてもらえますか。
(いきなり、本題に入る方は第3回へ)
最後に、治るとは何かという観点からもすこし見ておきましょう。
先ほどこう申しました。ふだんのみなさんにとって、健康という言葉は、「苦しまないで居られている」ことをを表現するものであるいっぽう、病気という言葉は、「苦しんでいる」ことを、その苦しみが手に負えないようなときに表現するためのものである、と。実際、そんなみなさんにとって、治るとは「苦しまないで居てられるようになる」ことを意味するのではないでしょうか。
しかし、医学がみなさんに勧める治療には、受けるとしばしば、副作用とか毒性とか副反応とかとよばれる苦しみをあらたにこうむることになるものがあります。したがってみなさんはそうした治療を受けるかどうかお決めになるさい、その治療を受ける場合と、治療を受けない場合のふたつをまずご想像になって比較考量なさいます。そして前者の、治療を受ける場合のほうが、治療を受けない後者の場合より、「苦しさ」がマシなものになるとご判断になれば、「得」をするとおとりになり、こう結論づけられます。
そうした「得」を打ち消すくらい、その治療によって生存期間が短くなるというのでなければ、その治療を受けよう、と。
反対に前者の、治療を受ける場合のほうが、治療を受けない後者の場合より、「苦しさ」が酷いものになるとご判断になれば、「損」をするとおとりになり、こう結論づけられます。
そうした「損」を埋め合わせるくらい、その治療によって生存期間が延びるということでもなければ、その治療を受けることはできない、と。
ところが、医学は患者に治療を施すかどうか決めるさい、そうした比較考量をしてきませんでした(していた誠実な医師もいたでしょうけれども)。
健康を正常であること、病気を異常であることと定義する医学にとって、治るとはあくまで正常になること、にすぎません。医学は、患者が正常になるかどうか、や、異常にならないかどうか、しか考えません。あるいはせいぜい考えても、治療によって生存期間が延びるかどうかしか考えません。肝心の快さ苦しさについては、して当たりまえの配慮さえ怠ってきました。治療によってどんなに苦しくなっても(ただし死に直結するような重篤なものは除く)、我慢して当然であるとしてきました。
(現在に至ってもなお医学は、「苦しまないで居てられるようになる」ことを二の次にし、「延命」を第一に考えているのではないかと俺にはちょっと思われます。「15年前」なんかはもう何と言っていいか。)
なぜ医学にはそんなにまで、肝心の快さ苦しさへの配慮を怠ることができたのでしょうか。
そんなことが医学にできたのも、やはり、そもそも快さ苦しさが何であるか理解できていなければこそなんじゃないでしょうか。
さあ、ようやく、グダグダ申し終わりました。遅ればせながら本題に入ります。
この文章では、冒頭で宣言しましたように、快さ苦しさが何であるか確認します。
以下、目次です、おおざっぱな。
第1部.快さ苦しさとは何であるか確認する*1。
第2部.西洋学問ではなぜ快さ苦しさを理解できてこなかったのか確認する*2。
第3部.西洋学問では快さ苦しさをどのようなものと解するのか確認する*3。
2019年11月8日に文章を一部修正しました。また翌9日に、方向性はそのままに、内容を変更しました。
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