(新)Nothing happens to me.

科学の欠点、限界、見落としている大事なもの

異常なひとを無くすことを医学の目的にするのは危険

*障害という言葉のどこに差別があるか考える第21回

 科学は健康を正常であること、病気を異常であることと定義し、医学を「異常なひとを無くす営み」と考えます。このように「異常なひとを無くすことを医学の目的にするのがいかに危険なことか、確認中です。


 先ほどは、息がしくいという例で考察しました。今度は、幻聴がするという例で確認します。先に挙げたものを再び用います。

 家族から、よく電話で浪費をいさめられている男性患者は、電話でガミガミ叱責された後で、幻聴がすると訴えた。幻聴は、「小遣いばかり使って」「お菓子ばかり食べて、あんなに太っている」と自分を非難する内容だった(岡田尊司統合失調症PHP新書、2016年、95ページ、2010年)。

統合失調症 (PHP新書)

統合失調症 (PHP新書)

 


 男性は電話で家族に怒られてから、周囲のひとも内心、男性のことを悪く思っているのではないかと気にして「苦しむ」ようになったものの、自分はそんなことを気にするような人間ではないという自信を持っていたのではないかと先に申しました。男性は、ひとに内心、悪く思われているのではないかと気にしているという現実を、自分はそんなことを気にするような人間ではないという自信にもとづいて、悪く言ってくる声につきまとわれているということと解釈していたのではないかと、合っているかどうかわかりませんが、推測しました。


 そして、幻聴がすると訴えるのは、苦しみを訴えるということ、幻聴がしなくなるのを要望するというのは、苦しまないでいられるようになりたがることであって、もし男性が医療処置を求めていたとすれば、それは、苦しまないでいられるようになることを目的とするものではないかと申し添えました。


 しかし、「異常なひとを無くす」ことを目的とする精神医学にとって、治療(以下、医学治療と称します)とは心(脳)の異常を正常に矯正することを目的とするものです。異常なひとはこの世に存在しないにもかかわらず、精神医学は幻聴がするという訴えを不当にも心の異常と決めつけ、心をそうした異常状態から、幻聴がするなどと言わない正常状態に矯正することを「医学治療」の目的と考えます。


 そうした「医学治療」として精神医学がこの男性に薬物治療もしくは手術を勧めるとしましょう。ここでは、その「医学治療」を受けると、ひとに内心、悪く思われているのではないかと気にして苦しむことがなくなり、その結果、悪く言ってくる声につきまとわれていると現実解釈すること(幻聴がすると訴えること)も無くなると仮定します。ただその代わり、終始ぼうっとしたりフラフラしたりするとか、注意散漫になって何かに集中することができなくなるといった《別の苦しみをあらたにこうむることになるとすれば、どうでしょうか。


 苦しまないでいられるようになりたがっている男性にとってみれば、この「医学治療」を受けることは、〈ひとに内心、悪く思われているのではないかと気にする当初の苦しみ〉を、終始ぼうっとするとか注意散漫になるといった《あらたにこうむる別の苦しみ》と交換するようなものです。《あらたにこうむる別の苦しみ》が〈当初の苦しみ〉より軽いものであればあるほど、当の「医学治療」を受けて得られる得は大きくなります。翻って申せば、《あらたにこうむる別の苦しみ》が重くなればなるほど、得られる得は少なくなっていき、ついに〈当初の苦しみ〉より深刻なものとなれば、当の治療を受ければ損をすることになります


「医学治療」を受けて《あらたにこうむる別の苦しみ》のほうが〈当初の苦しみ〉より深刻になれば、そのうえ、心肺停止の起こる可能性も高まり、さらにはいろんな活動をあきらめて休息していなければならなくなる時間もより増えるものと推測できます。当の「医学治療」を受けて、苦しみがより深刻になる死により近づく活動がより制限される、といった少なくとも三重の意味で損をするわけです。


 医療に、苦しまないでいられるようになることを目的とする処置をお求めになるみなさんは、異常を正常に矯正することを目的とする「医学治療」をお受けになるかどうか検討なさるさいには、

  1. 受けると、《あらたに別の苦しみ(副作用)》をこうむることになるか、
  2. なるとすれば、《医学治療後の苦しみ》と〈当初の苦しみ〉のどちらがより深刻か、


 ご配慮になるでしょう。息がしにくい場合と同じく、幻聴がすると訴える場合でもこうした「前後の苦しみの比較」は必要であると考えられます。


 しかし科学はこうした「前後の苦しみの比較」をこれまで十分にやってきたでしょうか。


 いや、実にしばしば、異常状態を正常状態に矯正するという目的を達成するためには、《医学治療後の苦しみ》はいかに強くてもガマンすべしとしてきたのではなかったでしょうか。そうした《医学治療後の苦しみ》を耐え忍ぶことを、闘病という言葉を使ったりして、美徳として奨励してきたのではなかったでしょうか。


 そもそも「医学治療」を受ければ苦しくなるのは当たりまえ、そうした苦しみに音をあげたり、気にしたりするのは甘え、もしくは医学に対する冒涜とする重い空気にみなさんは長いあいだ気押されてこられたのではないでしょうか(いくつかの実体験を俺は改めて思い浮かべています)。


 まさに医学には、《医学治療後の苦しみ》が〈当初の苦しみ〉より深刻になるのもかまわず、異常を正常にするという目的を達成することにひたすら血道を上げてきたところがあったのではないでしょうか。


 医学はそうして「異常なひとを無くす」ことを目的にするのがいかに危険なことか、たくさんの患者の身をもって示してきたのではなかったでしょうか


 いまでも、《副作用》を減らすことが、意志の弱い患者に「医学治療」を断念させないための方策くらいとしか思われず、真剣にとり組まれていないのではないかと僭越ながら疑われてしまうときが俺にはありますが、みなさんはどうでしょうか。

つづく


次回は4月11日(水)7:00にお目にかかります。


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