*障害という言葉のどこに差別があるか考える第3回
みなさんが障害という言葉にお覚えになる違和感の正体は、ひとを正常なもの(健常者・健康なひと)と異常があるもの(障害者)とに分けることが不当な差別に当たるという事情にあるのではないかと申しました。
ひとを正常なものと異常があるものとに分けることはまさに不当な差別に他なりません。そのことを以後この文章で確認します。
早速はじめます。
科学はひとを正常なものと異常があるものとに二分します。先ほども申しましたように、科学にとって健康とか健常というのは、身体や心が正常であることですし、かたや病気とは、身体か心に異常があることです。
実にみなさん、健康診断で異常が発見されるのではないかと戦々恐々とされたり、お子さんの言動に異常があると指摘され、自閉症スペクトラムだとかアスペルガー症候群だとかと診断されるのではないかと日々気を揉まれたりなさっているのではないでしょうか。
また、健康と病気をこのように定義する科学にとって、治療(予防を除く)は、身体や心の異常状態を正常状態に矯正することを目的とするものです。医学が施す治療のなかには、受けると、副作用とか毒性と言われる苦しみをこうむることになる施術があり、みなさんのなかにも、異常があると診断されれば、そうした苦しい治療を受けなければならなくなるのではないかとハラハラして健康診断をお受けになるかたがたくさんいらっしゃるでしょうけれども、実際そうした治療では、こうむる苦しみがいかに強くてもひたすら耐え忍ぶことが奨励されます。
それほどまでに医学は正常であること、異常ではないことを重視します。
ですが、みなさんどなたも、何かの拍子にふとお考えになりますと、正常であるとか異常があるとかいうことがいったい何を意味しているのか、そんなにハッキリしていないことにすぐお気づきになるのではないでしょうか。
正常とは問題が無いこと、異常とは問題が有ることを言うのだろうとはすぐお察しになりますが、では、無いとか有るとか言われるその問題はいったい何なのかと自問をおつづけになりますと、かえす言葉にぐっと詰まられるように思います。
正常であるとか異常があるとかいうのがいったいどういった問題の無し有りを言うものなのか、最初に確認します。機械について正常異常が言われる場合をまず考えます。
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