(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

障害という言葉に覚える違和感は故無しではない

*障害という言葉のどこに差別があるか考える第2回


 何も存じ上げないただのど素人のくせに、心苦しさをこらえつつとはいえ、僭越ながら俺はこう申し上げました。障害という言葉が、障害者をさして「害」と言っているとはちょっと思われない。障害という言葉は、ひとの身体にほんらい起こるべき出来事が・病気の原因によって・起こるのを妨げられている*1、障害者の身体状態をさすのではないか、と。


 楯突くかのようなことを申し上げてしまい、まことに申し訳ありません。


 ですが、同時にぜひともこう付け加えさせてください。


 たしかにいま、障害という言葉が障害者をさして「害」と言っているとはちょっと思われないと申しましたけれども、障害という言葉にひとが違和感をお覚えになる気持ちは、俺にも非常によくわかるつもりです。いや、俺もそうした違和感を強烈に覚えるひとりです、と。


 科学の考えるところでは、健康もしくは健常とは、身体や心が正常であること、かたや病気であるとか障害があるというのは、身体か心に異常があることではないでしょうか。科学のそうした見方にしたがえば、健常者もしくは健康なひととは正常であるもの、反対に障害者とは異常があるものと言い換えられるように思われます。


 けれども、ひとをこのように正常なもの(健常者・健康なひと)と異常があるもの(障害者)とに振り分けることは、不当な差別(朝の朝刊、馬から落馬みたいな重複表現ですが)以外の何ものでもないと俺は考えます。


 多くのかたがたが、障害という言葉にお覚えになる違和感の正体はまさしく、ひとをこのように振り分けること自体が不当な差別に当たるという事情にあるのではないでしょうか。


 ひとを正常なものと異常があるものとに二分する限り、障害という言葉の代わりにどんな言葉を用いようとも、かならず違和感は払拭されることなく残りつづけるにちがいないと思われてなりません。


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*1:2018年7月12日に中黒をふたつ追加しました。